2013年2月28日木曜日

深夜プラスワン―引き続き病室。
ここにいてやることは親父さんがトイレに行くと時に手を貸すだけ。朝までに10回くらいはトイレにいくのでほとんど眠れない。
ベッドの脇には簡易のトイレが置いてある。椅子に取り外しができる洗面器みたいなものがついたもので、お母さんが入院して直ぐに買ったものだが親父さんはずっと使うのを拒否していた。
だが今日はベッドから手を借りて立ち上がると、簡易トイレを指さした。もうトイレまでの数メートルも耐え難い苦痛なのだろう。
今まではトイレに連れて行くだけだったが、プラス簡易トイレの掃除もすることになった。と言っても掃除の方は女が全てヤッてくれたが。
朝になる。浅い眠り。メシの買い出しのついでにセブンの激辛おでんを喰う。
お母さんが午後には来る予定だと聞いていたが、その前に兄夫婦が子供をつれてやって来た。初孫を見て親父さんが久しぶりに笑っていた。私はiPod touchで二人の写真をとった。
兄夫婦が引き上げると、親父さんのお兄さん夫婦がやって来た。私にとっての義理の伯父だ。夫婦で簡単な日本語が喋れるらしく私に日本語で話しかけてくれた。
伯父は私に結婚祝だと綺麗に包装された小さな箱をくれた。私は面倒なことが嫌いなのでこういうものはさっさと受け取り、礼を言う。
女にも何か渡している袋に入っていて、どうやら中身はお茶のようだ。女は申し訳ないと断固として受け取りを拒否している。私はお茶くらいなのだからもうそこら辺で受け取れよと見ていたが、そのうちに泣きだし、伯父伯母にしっかりとだきしめられ、私たちはお前の親みたいなものなんだからねと慰められている。私はぽかんと蚊帳の外だ。
女はやっと結婚祝いを受けとった。伯父伯母は帰っていった。
女にどうしたのか聞くと、結婚祝いの中身はお茶ではなく”金”だった。台湾ではそいう習慣があるらしい。普通なら結婚式をあげるのでそれでトントンという計算なのだが、私たちはその結婚式を挙げないので受け取るのは申し訳ないと、押し問答になった末に感極まって泣いたらしい。面倒くさい。
ちなみに私へのプレントは音楽と言っていたので、何かと思っていたら1TBの小型HDDだった。中に170Gの音楽がたっぷり詰め込まれていた。イイね!HDDと金はいくらあっても困らない。そのうえUSB3.0と更に気がきいてやがる。

2013年2月27日水曜日

明日が台湾の祝日なので夜は病院に詰める事になった。昼は家庭菜園の世話とかしてまったりと過ごす。
夜、病院へ。
この病院はデカイ。恐らく敷地は東京ドーム何個分とかだろう、変な出口から出ると何処にいるかわからなくなる。
親父さんの頬はさらにゲッソリと痩けていた。それに反比例して腹は膨張している。水と腫瘍がたっぷりつまっているのだ。たっぷりと。親父さんは今はただ苦しむだけに生きてるような物だ。
マッサージをしてやると感触は、骨とささやかな贅肉だけ。筋肉はもうない。私の死んだ二人の祖父も死ぬ前はこんな体だった。
今ではしゃべるのも苦痛らしく、ほとんどジェスチャーで意思を伝える。
女は病室に来るとずっと食べるように親父さんに言うが、親父さんは全く食べないし、薬も半分くらいしか飲まない。
頑なに食べ物を拒否する姿を見て私は親父さんはカタを付けようとしているのだと思った。

2013年2月26日火曜日

朝起きて女が仕事に行く。家庭菜園の世話をさらっと済ませてコンビニへ。朝飯だ。カップ麺に唐揚げをぶち込んでおにぎりを喰う。
家に帰ると就職会社から連絡。車の運転の免許がどうのこうの。面接とかは来週になるだろう。
日本でHDDの放り込んだ映画を観る。『青い塩』―テンポが悪い、これは役者が下手だったら話にならなかっただろう。
いつの間にか昼。近所のバイキング形式の飯屋でテイクアウト。今日も60元。
女の実家には50インチのテレビがあるが、私がここに来る今の今までその真価を発揮したことはない。今までは親父さんとお母さんが仏教団体が作ってるしょうもないホームドラマを観るのにしか使ってない。ドラマの内容は、働き者の七三分けの兄弟の日常だ、何故か異常にキレやすい女を女房にしており、毎回キレた女房を家族でなだめすかすという内容だった。面白くもなんともないのだが二人は大爆笑してみていた。最後には兄がいきなり血液癌になり死ぬ。その展開を見ていた末期がんの親父さんが私に「これが人生だよ」と言った。私は確か「ああ」とだけ返した。
そんな状況なので50インチのハイビジョンが生かされたことは全くない。何で50インチを買ったのかも疑問だ。
だが私が来たからには安心したまえ、その真価を遺憾なく発揮することができる。私はPS3を繋げた。
午後、まるまる映画を見て過ごす。
夜、ベッドで女と話す。私はこのマンションが自分の家のような感じがしないから落ち着かないというような事を話した。その話が発展しこれからの話になる。お母さんがどっちに住むかだ。
元々の予定は兄夫婦と同じマンションに買った新しい部屋に二人で住む予定だったが、親父さんはもうそこに住むことはない。兄貴はその部屋を人に貸すつもりだ。
となると、兄夫婦のマンションか、古巣のこのマンションに住むかどっちかになるのだが、兄夫婦のマンションは孫の面倒を見なきゃいけないので疲れると言っているのでこっちに戻ってくるかもしれないという。最悪の事態である。長男の所で預かってよというのが私の本音だ。
私の本当の希望は引越し、だ。だがそれもお母さんに強固に反対されるのはわかってる。金がないのだからタダのここに住んで貯金しろというわけだ。
だがせめて自分の部屋くらいは欲しいもんだ。今一室をあてがわれて入るが、荷物を整理しておているだけだ。
しかも整理の仕方にも文句を付けられる。前スーツケースを物入れ代わりにベッドの脇においておいたらお母さんがしまえと文句を言っていると女に片付けさせられた。革製のアンティークな感じのスーツケースなので上手く使えば部屋のインテリアにもなる。のでそういう使い方をしてるのだが、理解はされない。されない。
なので私は居場所を失ってしまったのだ。また。

2013年2月25日月曜日

月曜日。だが女は免許をの試験で休み。私も毎日が日曜日。
朝、女は試験に出かけて行く。私は読書しなながら眠ったようだ。
昼過ぎに女が合格して帰ってくる。女と家庭菜園の世話。虫だらけだとキレる女、私は適当にやってるから当然だ。親父さんとお母さんは日に三度は水をやって虫もとっていたらしい。初めて知った。私は朝一回だけだった。
これから一日五回虫をとれと言われる。わかったと答えたが、いっその事全部喰われちまったほうが面倒が無くていい。
午後に就職会社と連絡。日系企業の物流会社二社に履歴書の送ってくれるという。

2013年2月24日日曜日

朝、病室―お母さんと入れ替わりで、女と家に帰る。
女はすぐに自動車学校に行く。私は家庭菜園の世話。
女が帰ってくると、飯。明日は免許の試験らしくネットでずっと模擬試験をやっている。
台湾の免許とるときに路上教習がない。来年からその制度が変わるらしく女は駆け込みで免許をとる。
今日は最後の教習で教官から、これからも会いたいとか色々誘われたと言ってた。教習中もずっとドライブに行こうとか誘われていたと聞いていた。日本ならセクハラであっという間に首になりそうだが、はやり緩い。

2013年2月23日土曜日

土曜だが女は旧正月の休暇の関係で出勤。
私は一人で留守番。外で飯を買ってきて喰う。喰う。これは女に禁止されている行為。知ったことではないが。
夜女が帰ってくる。今日はまた病院に行く予定。出発前に親戚、父方の叔母から電話だ。女を病院まで車で送ってくれるという。
女は父方の親戚にはまだ私のことは話してないので、私はバスで一人で病院に行けという。父方の親戚はうるさ型だから、らしい。
バスで一時間、病院につく。親父さんは今日からちゃんとした病室に入院している。前の救急冒頭よりはずっとマシだが、隣では爺さんずっと騒いでいる。(あとで聞いたら爺さんが勝手に点滴を引きぬいて血まみれになったりと大変だったらしい)
2日程度しかたっていなかったが親父さんの頬は痩けていた。腹に出来た腫瘍が広がり飯を喰うのも水を飲むのも苦痛だ。飯も2日に一回程度お粥を何とか食べるだけ、このまま行けば飯を食えなくなってチューブだらけになるのもそう遠くはないだろう。
Kindleで警官の血を読みながら朝を待つ。

2013年2月22日金曜日

―引き続き病院。
iPodで音楽を聞きながらKindleで横山秀夫の64を読む。読む。ド深夜一人末期がんの義父が眠るベッドの脇で泣く。泣く。64に感動して。
朝がた抜け出し、コンビニで激辛おでんを喰う。
10時くらいにお母さんが交代に来て、私はバスに乗って帰った。
暫く休んでから履歴書に中国語訳をつけて就職会社に送る。

2013年2月21日木曜日

連絡した転職会社から履歴書の職歴の欄に中国語訳をつけて送れとメールが来る。
女に手伝わせるほうが良いと判断し取り敢えず女が帰って来てからやることにして、昼間はのんびり家事をして過ごす。
女が帰ってくると、メシ喰ったら親父さんが入院した病院へ行って朝まで親父さんに付きそうと私に言った、私もだ。
親父さんは二日前に入院していた。
女とタクシーで、林口という台北の郊外の病院へ移動。
また病室が空いてないので親父さんは緊急病棟の狭いベッドに寝かされいてた。だだっ広い部屋に100人は寝かされている。隣とは血のついたカーテンで遮られてるだけだ。
親父さんはまたさらに痩せていた。今年60歳なのだがもう75歳くらいに見える。起き上がるのに人の手を借りねばならないくらい弱っている。
左隣では妊婦が涙を流しながら荒い息でうめき声を上げている。右隣では爺さんが一晩中呼吸器を外そううとして看護師ともめている。遠くからも呻き声が聞こえてくる。わけの分からない機械のビープ音に生命維持装置のビープ音。とてもじゃないが落ち着いて寝られる状態じゃない。
親父さんは眠ったり起きたり。ときどきトイレに行来たがるので連れて行った。

2013年2月20日水曜日

すっかりのんびりとした生活が馴染んでしまい、今日からバリバリ就職活動をしなければならないのだが、ローテンションの朝。
朝、女を送り出し、家庭菜園の水やり。何と
親父さんとお母さんが引っ越してからは私の仕事だ。
その家庭菜園のプチトマトが枯れかけているとお母さんが言っていたと女から文句を言われた。今日見たら葉っぱが萎れていた。
毎日水を上げているのだから普通は気がつくのだろうが、全く興味が無いので、気が付かなかった。
なんとなーく映画を見始めて、気がついたら昼。近所の自助餐と呼ばれているバイキング形式の飯屋でテイクアウト。そこそこ取ったが60元だったので日本なら200円もしない。
メシを喰って日記を書きまくる。もう夕方。
やばい、何もしていない。結婚してから連絡するということになっていた転職会社にメールを送る。
女が帰ってくるのに合わせてメシを作る。返ってきた女と飯を喰う。
女が旧正月が開けたのでお参りに行くというので、原付の後ろに女を乗せて、近所の廟へ行った。

2013年2月19日火曜日

女を午後から仕事休ませて移民署へ行く。
配偶者さえ連れて行けば、手続きは進む。申請をすぐに終わった。3月1日に発行されるのでまたこなければならない。
結局、担当者に無罪証明書と戸籍謄本は結婚ビザの場合は不要と言われた。無罪証明書の為に二週間以上日本に滞在したのに、やれやれだ。しかも何処で聞いても必要書類の中に入っていたのに。これが台湾のお役所仕事だ。
家に帰り飯を食うと女が兄貴のマンションまで行って親父さんを見舞おうという、車で。
私はなんとかペーパードライバーを卒業したが、いきなり台湾で知らない道を夜走らせるのは自信がなかった。右側通行にもちょっと慣れてからと思っていたが、女は行く気マンマンだ。
結局私もなんとかなるだろうとハンドルを握った。左ハンドルに右側通行でボロ車に台湾の荒い交通事情。だが何とかなった。というよりついていたという方が正解だろう。
とにかく兄貴のマンションについた。親父さんは少し調子がいいようでメシを喰っていた。昨日と一昨日は一日で一杯の粥を喰うのが精一杯だったが、今日は椀に盛られたメシと野菜を喰っている。
ついでに兄夫婦の生まれたばかりの赤ん坊に初対面。
私が赤ん坊を見ていると親父さんが、お前も早く50000元くらい(15万円)の給料をもらえるようなったら子供を作れと私に言った。私は日本でその倍以上の金額の給料を手取りでもらっていたと心の中で毒づいた。
この死にかけのボケ老人は私を半人前扱いしたがるが、台湾に来たから私は半人前になってしまった事実を理解していないのだろうか?
さらに赤ん坊に何かプレゼントは買ってやったのかと続けたので、ちょっとムッときた。私はすでに赤ん坊の服を日本で買って手渡していた。
直ぐに姉さんが貰ったし、お父さんも見たじゃないとフォローしてくれたが、親父さんは何も言わなかった。
私は相当気が悪くなったので、帰るとき結構冷淡で女が後で文句を言っていたが、ほとんど無視した。
帰りは行きよりも相当慣れたので、スムーズに帰れた。車庫までは。
車庫は相当狭い。元々車の細かい運転が苦手な上に初めての左ハンドルで気がついたら思いっきり左のドアをシャッターにこすっていた。
その後悪戦苦闘しどう動いていいかわからず、三度ほどひどくこすった所で、その音を聞きつけた近所のオッサンが助けにやって来た。
オッサンは俺がヤッてやろうと私と運転を変わりさっと車庫入れしてくれた。私はあぁこんな簡単なのかと思ったほど。
さらにオッサンはコスってひん曲がったシャッターのレールをペンチを持ってきて直してくれた。
あまりにも親切なので女に知り合いかと聞くと、全然知らない人と言っていた。

2013年2月18日月曜日

今日は朝から面接。日本の工事会社の支店だ。
仕事内容にもあまり興味がなく、家から結構遠いのであまり乗り気じゃない。が行かねば。
二時間近く掛けてその会社へ。マンションの一室に有るらしい。
時間まで少し外で待ち、中へ。小さい事務所で、5,6人くらいしか居ない。若い日本人の男が私を応接室まで案内してくれた。
少し待たされ面接官が応接室に入ってきた。面接官は履歴書を見せてくれと言った。私は転職会社から行ってるのでわざわざ持ってきてないと答えた。セブン-イレブンに印刷しに行くのがめんどくさかったのだ。乗り気じゃなかったのだ。
面接官は何もなしですかと、少し驚いたようで、私の履歴書を印刷しにまた部屋を出て行った。
私はさっきのリアクションをみて、もう帰ろうかと思ったがそれは流石にあれなので、待った。
面接官が帰ってきて面接開始。面接自体は上手くいったようだ。面接中、何度か採用したら来る気はあるのかと聞かれた。一応あるとは答えたが。
しかし給料は低いが、バリバリ働らいてくれて感じで、しかも仕事内容に興味もないのでやっていく気がない。
家に帰り女と相談したが、取り敢えずここはスルーということになった。
移民署に行く。幾つかあり住んでいる場所によって管轄が違う。私は新北市に住んでいるので中和というところまで行かねばならない。
電車とバスを乗り継けば行ける所だ。
新北の移民署は国防なんとか大学の敷地内という変な場所にあり、多少迷ったが無事についた。
新北市は台北の郊外を一挙にまとめた市なので(昔は台北県といわれていた)、地元の人間が多い。移民署もベトナム人の嫁さんもらった人たちが多いような印象だ。
移民署はそこそこ混んでいたが、待ち時間はほとんどなく私の番になった。書類をサッと見て担当者は一言、嫁さん連れてこないとダメだよ。

2013年2月17日日曜日

目覚めると女と私。そういえば昨日の夜から二人での新婚生活が始まったのだ。
明日、移民署へ行って居留証と滞在ビザの最後の申請をする。必要な書類は大阪で言われたのはパスポートと台湾の機関で承認された無罪証明書と日本の戸籍謄本。
女が私は一緒に行かなくていいの?と聞く、大阪で何も言われたなかったので必要ないだろうと答えた。
女は外交部で一緒に行かなくてはならないと言われたと言う。週末で休みなので確認のしようもないし、サイトを調べたが何も書いてない。
安牌で一緒に行くかと聞いたが、仕事を休まなければならないので、私が一人で行くことになった。


2013年2月16日土曜日

朝から親父さんの引越しの準備と掃除を手伝う。
合間に親戚が親父さんの様子を見にやってくる。私の存在は親戚には秘密である。結婚式を上げてない結婚は”恥”らしい。
親戚が来るたびに私は屋上や自室に軟禁される。
今日は千客万来。屋上でずっとKindleで読書だ。天気はいい。
親戚が帰ったのでを掃除していると、どうやらまた来たようだ。私は女にKindleを取ってくるように頼んで待っていたら、女が手ぶらでやってきた。親父さんが私を呼んでいるという。
やっと諦めたようだ。
来ていたのは母方の叔父さん一家。挨拶だけしたが、会話が台湾語がほとんどなので、何を言ってるかはわからない。
居てもしょうが無いので、お茶を淹れるフリをして脱出。
親戚が帰ってしまうと、兄貴が迎えに来た。
親父さんが出発する前に戸締りをしっかりしろとか色々言い残していった。そんな事心配している場合じゃないだろうがと思いながら私は見送った。

2013年2月15日金曜日

朝起きるとまたホテルのベッド、両脇には両親。
荷造りしが終わり、親父とコーヒーを飲んでいると女がやって来た。最後にそこそこ高級な中華に連れて行く。そこそこの金をとるだけあって両親が本当に美味そうに喰っている。
メシが終わり、両親を空港まで送る。親父は新しい娘との別れが少し名残惜しいようだったが、涙を見せず帰って行った。
私は久しぶりに女の実家に戻った。居間には病院で出来ることはないと追いだされた親父さん。調子は大分悪そうだ。
今日の夜から兄貴のマンションに移るという。親父さんは少し前に兄夫婦と同じマンションに部屋を買っていた。まだ掃除が済んでいないので取り敢えずは兄夫婦の部屋に住むらしい。
夜、兄貴が迎えに来たが調子が悪すぎるので、引越しは延期。先に荷物だけ運ぶ事になり、私も荷物を運ぶのを手伝う。
荷物を運んで戻ってきた私に、親父さんがこのマンションは苦労して買ったので、あとの面倒をしっかり頼むと言った。
まぁようは女と私にこのマンションをくれるという事なんだが、ここらへんが私とこの家族の間でちょっとした”行き違い”のようなものがあるのだ。
親父さんは、日本からわざわざ呼び寄せて悪いとは思っているがこんな良いマンション上げるんだから良いだろう?車と原付もやるよ!だからウンタラカンタラと思っている。
だが私はこのマンションを全然気に入っていない。タダで有る以外なにも気に入っていない。辺鄙な所にあるし、エレベーターもないし、浴槽もない、風呂の水の出は悪しい、温度調整すらもともにできない。出来れば早く引っ越したい。
おまけのモーターサイクルについては、私は元々自分で運転するのが嫌いなので自転車くらいにしか乗らないし、ボロボロの中古車と原付をくれるとか言われても、台湾の車税とか保険料とかどうなん?厄介事のリストに項目が追加されたくらいの思いしかない。
やれやれだ。
取り敢えず親父さんとお母さんが寝てしまったので、私も寝るかと思ったら、女が今日から一緒の部屋で寝るという。今まで別々の部屋で寝ていたのだが。
いきなりどうしてと聞いたら、お母さんから布団が足りない、ベッドに一枚ずつしかない、と言われたという。
私はこの戦国時代のような言葉にめまいを覚えて、女の部屋で寝た。

2013年2月14日木曜日

目覚めるとホテルのベッド。両脇には両親。女にホテルに泊まるように指示され、両親の部屋に泊まったのだ。
今日は両親の観光あんないだ。女も合流し、台湾で一番でかい故宮博物院へ。
女がずっと中国人だらけでうるさいと文句を言っている。来る途中のタクシーでも運転手が最近博物館に中国人が増えてうるさくなったと文句を言っていた。
台湾人の中国人への一般的なイメージはモラルのない田舎者だ。
すべてがそうではないが騒がしい博物館にいるとそういうイメージだけが広がっていくのも分かる。
博物館の後は台北で一番古い宮に行ってお参り。あとはひたすら土産探し。両親よりも女が必死になっていた。

2013年2月13日水曜日

女と朝ホテルへ両親を迎えに行く。親父さんが病室に入れたら会う事になる。恐らく午後か夕方くらいと連絡があったので、女がそれまで飯喰って両親を猫空にでもつれてってお茶を飲もうと提案。
取り敢えずメシは日本人観光客のど定番・鼎泰豊に連れて行き、小籠包を喰わす。
それから猫空に向かう途中に、電話。病室が移れるかどうか分からないので体調がまだいいうちに来いという。
コロコロ変わりやがってと私は多少苛ついていたが、両親に異存がないので、病院へ向かう。
病院は台大病院。台湾で一番有名な病院。
私たちはロビーを抜けて救急病棟へ入る。廊下中にベッドが置かれヒトが寝ている。正月で医者の数も少なくこんな状態らしい。
うんざりするような病人と怪我人満載の廊下をずっと行くと、開けたスペースに5つほどベッドが置かれ、一番はじに親父さんがいた。
だいぶ体調は悪そうだ。私が日本に行ってからドンドン悪くなったと聞いていたが、思ったよりも悪いようだ。少し痩せて、朦朧とした喋り方になっている。
私は親父さんとお母さんに両親を紹介し、それからしばらく、こんなトコロで申し訳ないとか、挨拶が遅れて申し訳ないとかなどの社交辞令を通訳し続けた。何とも間が持たないので、私は直ぐにでも引き上げたくなった。
女に親父さんも疲れるだろうから引き上げようというと、もうちょっと、返事が返ってきた。
いきなり親父さんが両手を大きく広げた。何の意味かわからない。
女が近くによると、女の手と私の手をとって合わせて、親父さんは何か言った。何を言ったか忘れてしまった。忘れた。
私は親父さんにしっかりと面倒を見るから大丈夫だと答えた。親父さんがいつの間にか泣いている。お母さんも泣いている。女も私の隣で鳴き出した。
私は女に泣かれると弱いので私も涙ぐんだ。そして思った。私は果たして女と本当に結婚すべきだったのかと。女に本当にふさわしいのは、100人が100人あいつは本当に良い奴だ、と答えるような男だろう。
私は、そんな男ではない。決して。この結婚はここにいる6人にとって不幸なのことかもしれないとふと思った。が、人生に不幸はつきものじゃないか。
気がついたら母親も涙ぐんでいた。この会合のクライマックスを迎えた所でお開きだ。私の親父を見たが涙ぐんでもいなかった。
思えば親父が泣いたところを見たことがない。私は昔の男は偉いもんだと感心しながら病院を出た。
病院の出口まで送ってくれたお母さんが両手を振っている。この涙の会合の最後に両手を振ってというのは不似合いだが、お母さんの最高のアレなんだろう。

2013年2月12日火曜日

朝、メシを喰いにコンビニでも行こうと兄貴の家を出る。鍵は置いてある所は前に泊まって知っていたので鍵を持ってでた。
台湾の家庭の扉は閉めると自動的に錠がかかる。ホテルと同じだ。扉をしめてふと鍵束の鍵を合わえてみたがどれも合わない。ここで気がつく、私が持ってるのは実家のマンションの鍵だ。
昨日の夜、兄貴もメシはコンビニが近くにあるからとか行っていたので鍵は置いてあると思い込んでいたが、どうやらこの部屋の鍵は二人が全部持っているようだ。
しょうが無いので諦めてコンビニ行く。セブン-イレブンの激辛おでんで朝飯を済まし、オートロックのマンションの入り口で中に入る機会を伺う。
大分時間がかかったがマンションに入るとエレベーターで兄貴と再会。兄貴も私に鍵を渡し忘れたことを気がついて私を探していたらしい。
兄貴の車で空港へ。その道すがら兄貴が話し始めた。なぜ女の両親が私を台湾に呼び寄せたかを。
女が生まれた時、足が曲がっているという障害がありまともに歩けなかった。―その話は私も聞いていた。施設に入れるかどうか迷うくらいだったらしいが、両親が頑張って手術を受けさせ、普通になったという。女はそのことを深く感謝しており、私にその話をしたとき泣いていた。
ともかくその事を女の両親は深く思っており、そばに置いて面倒を見なければならないと心のなかで思っている。
私はその話を聞いて、理解できるような、理解できないような微妙な感じだったが、感情優先で行動するきらいが女の両親はあるので、納得はした。
両親を空港で拾いホテルに送る。まだチェックインできないので荷物だけカウンターに預け、喫茶店で、女を待つ。30分後くらいに女が来た。
女と両親は2年ぶりくらいの再会だ。女は親父さんの状況を両親に説明した。体調が大分悪いが朝は調子が良いので、明日の朝女の実家で会えるようにすると。
取り敢えず今日はホテルの近所の夜市でメシでも食おうということになる。
ホテルから一番近くてデカイ夜市にタクシーで向かう。
台湾は旧正月真っ只中。9日間の休暇でそこら中ヒトだらけ。夜市も酷い混雑で私の両親は直ぐに参ったようだ。
ちょっと食べ歩いて、適当な店で炒飯やら麺やら何やらを喰ったら、もうどうでもよさそうなのでホテルに帰る。この時に女と両親の間でどっちが勘定をもつかで激しい鍔迫り合いが度々起こる。
台湾人は客が来たら全ての金を出すのが常識だ。更に女にはわざわざ台湾に来てもらったという負い目が有る。なのでとにかく金をだしたい。両親は可愛い嫁に金ださせるわけには行かないと金を出したいと相当面倒な状態だ。
私は女に私の両親が恥をかくからと説得し両親が出した金を女のカバンにねじ込み、取り敢えずは解決した。
ホテルに帰ると、女は私にホテルのソファーで寝泊まりして両親の面倒を見ろと言って帰っていった。
それから女から電話があった。親父さん入院することになった、でも部屋がなく救急病棟の廊下に寝ている状態だという、明日病室が開く予定なのでその時に会えるようにすると。で両親がいないので実家で寝ろという。
私が帰る理由が意味の分からないものだったので、一体全体どういう意味だと私は抗議も込めて聞いたが、女の答えはつべこべ言うな、もう迎えに向かっている、あと五分でつく。
私は両親にやっぱり女の実家で寝ると言い、ホテルを出た。
女と兄貴が車で迎えに来た、台北市の病院に入院させそのついでに私を拾いに来たのだ。
家にかえり、女と一緒に眠る。多分理由はこれだろうと納得した。

2013年2月11日月曜日

夕方の飛行機で私は日本を発った。発った。
空席が目立つ飛行機は台湾に舞い降りた。舞い降りた。
女から親戚がいっぱい来てるわ、親父さんの様態が大分悪いので実家に帰らず、兄貴の家に泊めてもらえと言われていたので、兄貴の家に泊めてもらう。
兄夫婦はまだ産後院というやつに泊まっているので私は一人で気楽に寝れるわけだ。兄貴に近くの駅まで迎えに来てもらう。
明日、私の両親が台湾にやって来るのだが、空港に迎えの車をだしてくれるという。兄貴の家はあ女の実家と違って生活感があるので泊まりやすい。
兄貴が産後院に行った後は、50インチのテレビでPS3で眠くなるまで遊びまくる。

2013年2月10日日曜日

ぶっ壊れたPS3を買い換えるかどうかずっと悩んでいたが、昨日買うと決心した。PS3の本体に取り付けられる外部モニターをヨドバシのネットで買ったので、賽は投げられルビコンは渡った状態だ。
観ときたかった映画を観るついでに名駅前あたりで買うことにする。
本当は要らなかったのだが、Blu-ray再生機がどうしても必要だということになった。
PCで観れるようにBlu-rayドライブを買ったのだが、再生ソフトがクソばかりだ。昨日まで見れてたのにいきなり対応していないと表示され再生できなくなるとか、他の安い再生ソフト買っても何故かBlu-rayのメニュー画面が表示できないとか、とにかく問題が多く、再生ソフトだけで1万くらいすでに使っている。これからもこの問題に悩まされるならBlu-ray再生できるデッキを買ったほうが効率がいい。なら選択肢はゲームも出来るPS3以外には無い。無い。
駅前でアウトローとかLooperを見てPS3を買って家に帰る。
家に帰り荷物をまとめる。PS3は手持ち荷物のカバンに突っ込む。OK準備完了だ。

2013年2月9日土曜日

もう後は台湾に行くのを待つだけだ。チケットは11日。
TSUTAYAでDVDを借りてきてHDに放り込む。これで台湾で退屈することはないだろう。しばらくは。

2013年2月8日金曜日

目覚めると大阪のネットカフェ。いびきが聞こえる。またしばらく眠る。
昨日の夜はたっぷりと飲んで放出して遊んだ。女が聞けば絶句する金額が飛んでいったが、常識の範囲内だ。
女の一家はこういった遊びとは全く無縁だ。親父さんも飲む打つ買うとは無縁、趣味は家庭菜園に散歩くらい。つっても中国に一人で長いこといたのでその間遊びまくっていても不思議はないが、本当のところどうだかは知らない。
こんな風に金を使うくらいなら株でも買うか定期預金でもするのがこの一家だ。しかし親父さんはもう使えない貯金と幾つかのマンションを残して末期がんで死にかけている。
可愛い子供の為にある程度の財産を残して死ねるのだから、親父さんは満足というかも知れないが、もう少し楽しんでも良かったのではないだろうか。
その可愛い子供が結婚相手に選んだの私のようなクズなのだから、正直私は親父さんに同情する。
昨日の夜、私が遊んだ金は無駄だろうが、この世の中には必要なムダが有るのだ。昨日の晩の思い出で私はまたヤッていけるのだ。
そんな事と昨日の晩使った金の事を考えていると、ネットカフェの退室時間を過ぎていた。
私はネットカフェを出て難波駅の近くまで歩いた。
偶然に自由軒を目にしたので、入る。カレーを喰い、実家の土産に持ち帰り用のカレーを買った。
インディアンカレーというやつだ。昔、信太山駐屯地にいた時によく喫茶店で唐揚げ入りのインディアンカレーのシブツを喰っていたのを思い出した。あそこはメシがまずかったからシブツばかり喰っていた。
カレーを食い終わると大分疲れたので、近鉄の名古屋行きの特急に乗った。

2013年2月7日木曜日

朝早く家を出る。今日はビザ申請の日だ。
台湾の大使館に当たる施設は東京と大阪にしかないので大阪まで行かねばならない、しかも朝11時半までに。さらに即日発行の料金を払うことでやっと今日ビザがもらえる。普通は翌日発行だ。
すべてが順調にいけば十分に間に合う。順調ならば。五分や十分でもたついて新幹線に乗り遅れば間に合わない。
朝九時に愛知県県警で無罪証明書を受け取り、タクシーに飛び乗り、新幹線に駆け込む。予想より一本早いのに乗れる。
新大阪からJRで大阪駅まで移動しタクシーに乗る。到着は10時半。完璧だ。
時事上の領事館やら大使館という面倒な説明のいる台湾の施設にはいる。ズラッと項目ごとに一個ずつの窓口、番号札すら無い。
窓口の台湾人のオバサンに結婚のビザの申請だと伝えて必要書類を渡す。顔写真、無罪証明書、日本の戸籍謄本二通、健康診断、ネット申請の画面をプリントアウトしたもの。
するとオバサンがネットの申請のプリントアウトした紙を観てまだ完了してないから、ネカフェで完了させてプリントアウトしてこいという。
地図を貰ってビルを出る、しかし地図が雑で全然わからない。今の時間は11時。三十分後に戻らなければダメと言われてもおかしくはない。
WiMAXのルーターを持ってきていたので一日契約し、ネット申請を終わらせる。あとはプリントアウトだが近くにファミマとローソンしか無い。セブン-イレブンがあればJEPGでもプリントアウトできるが。
受け付け番号があれば大丈夫だと思い、しょうが無いので戻り画面を直接見せて受付させる。
オバサンは私に言うとおりにやれば、早く終わるからとぶっきらぼうに私言い、てきぱきと雑に指示を始めた。この申込書をかけ、あっちで金を払えどうのこうの。
サイトには即日発行には追加料金が必要と書いてあったが、配偶者のビザは追加料金無しで即日発行らしい。前日にここに電話してファックスしてもらった資料には即日発行の場合は受付が3時までと書いてあったが受付のオバサンはダメだと言っている。
これが台湾のお役所仕事だ。全てがあてにならない。唯一の答えはその時の窓口担当者の言葉。事前にサイトをどれだけ詳細に調べうが、電話しようがひっくり返される。
デタラメだが良い奴ってのが台湾のいいところ。窓口のオバサンも愛想は大してないがキッチリ、さっさと処理して、二三時間後に来いと私を追い出した。
近所でメシを喰い時間を潰し戻る。時間通りに行くと珍しく、ビザはできていた。パスポートに私の写真入りのビザが貼り付けられている。といってもこいつは入国用の暫定版。台湾に入国して15日以内に移民局にいって手続をしなければならない。
ともかく終わった。ただの事務処理だったが、キチキチの綱渡りの予定だったのでそれなりの達成感はある。
さぁ帰るかと思った。が、ここは大阪だ。下らん事務処理だけして帰るバカがどこにいる?
取り敢えず難波まで移動する。難波を歩き回りながら考えた。一晩遊ぶくらいの金はある。これから台湾に移ってしまえば遊ぶ機会はもう無いだろう。無いだろう。
遊ばない理由を私の頭脳は思いつかなかった。フラフラと歩きまわり遊びまくる、と決意した頃にはちょうど晩飯どきだった。
取り敢えず景気付けにふと目にしたすっぽん料理と書いてあった居酒屋に入る。表に出ていたメニューにはすっぽんコース8000円とあった。決して高くはない。
まだ時間が早いので店に誰もいない。私はカウンターに案内され、若く男前の板長にすっぽんコースを注文した。
8000円というお手頃価格なのに接客態度は高級店だった。板長はカウンターに座った私に料理の説明やら何やら色々話しけてくれた。客は私一人だったがもうすぐ来るらしい宴会の準備をしながらなのでまるっきり暇というわけではない。
メインのすっぽん鍋が出てくると仲居さんがひとり私の隣に付き、鍋に具材を入れるのもそれを取り皿にとってくれるのも全てやってくれた。
私が最初のビールを飲み干し飲み物のメニューを見ていると、飲み物はビール以外だいたい1000円くらい。一番高いのはヒレ酒の1200円。
さてどうするかと私は迷った。どうせなら1200円いってしまうかと、思った所で板長が私に試したいメニューがあるがどうですか?と声をかけてきた。
板長はハイボールなのですがと続けた。恐らくメニューを見ながら迷ってる私を見て助け舟をだしてくれたのだろう。目の前に座ってるとはいえよく客を観てると感心した。迷ったといっても一分かそこらだろう。
私はありがたくハイボールを注文した。料理が美味いのでハイボールもいつの間にかなくなっていた。
これだけ料理も旨くて、サービスも最高なら多少金を落した所で全く惜しくない。ヒレ酒を頼もうと思った時に、板長が結婚祝いにヒレ酒をごちそうさせてくださいと言った。私は快くヒレ酒をご馳走になり、更に二三杯は継ぎ足せるので遠慮なくの言葉に甘え二杯目を飲みながら、本当は80000円じゃないのかとあまりのサービスの良さに訝しんだ。が、80000円でも惜しくないと二杯目を飲み干し勘定をしてもらった。
値段は8000円プラスビール代一杯のみ。板長がなぜ初めて来た旅行者の私にこんなに良くしてくれるのかさっぱり分からないが、これが本当のサービスなのだと私は思った。
バイトの店員が形だけ客に膝をついて、喜んで!!威勢よくと絶叫するのなどクソだ。
私は出口まで送ってくれた板長に必ず妻をつれてまた来ると約束し店を出た。
出だしは好調。夜は始まった。

2013年2月6日水曜日

夕方、区役所で戸籍謄本を二通受け取る。あと明日の朝警察で無罪証明書を受け取ればすべての書類が揃う。
夜は従兄弟たちを集めてメシ。前会えなかった従兄弟も集まって合計五人で近況報告。最近全然集まってなかったので兄弟同士でもお互いの職業を知らない始末。
その後は飲みに出かける、三人が下戸なので運転手には不自由しない。
今日はじめて実家の近くにキャバクラがあるのを知る。レベルはそこそこか。一族でキャバクラにくるのは珍しいと言われた。

2013年2月5日火曜日

朝区役所が開くと母が知り合いに電話し戸籍謄本が明日の夕方に手に入ることになった。
何かNPO法人をやってるのでその知り合いらしかった。
何にしろなんとかスケジュール通りだ。

2013年2月4日月曜日

久しぶりにやることが有る日。
区役所に行き日本側の結婚手続きを行う。本当は直ぐに行きたかったのだが、手続きに必要な女のパスポートが期限切れ。先週の金曜日の夕方にやっと私の元にPDFがメールで届いたのだ。
区役所に必要書類を持って行き番号札をとった所で気がついた。日本側にも婚姻届を出すということは女のサインやら何やら必要じゃないのかと。もしかしたら面倒かもと思った所で、呼ばれた。
台湾で結婚した何やらと担当者に伝えて、必要と言われていた書類を渡す。―結婚証明書(台湾発行)、戸籍謄本(台湾発行)、女のパスポートのコピー、台湾で発行された書類の翻訳文。
担当者は書類をチェックして、翻訳文は全文必要だと私に言った。私は必要な箇所を訳しただけだったので不足していたのだ。
心配していた婚姻届は私が一人で必要事項を記入すれば問題なく、女のサインも印鑑も、証人も不要と言われた。
私は一旦、家に戻り翻訳文を作り直し、婚姻届に必要事項を記入し区役所に戻り、再び番号札をとり、担当者に書類を渡す。
それから私は一時間以上待たされた。
やっと呼ばれると細かい修正をして―この修正には国籍を台湾から中国に、住所を中華民国から中国台湾省にといったものだった、もし女と来ていたら面倒だったろう。
修正が終わると手続きは完了した。私は直ぐに戸籍謄本が欲しいと伝えたが、一週間はかかると言われた。
戸籍謄本はビザの申請に必要だ。ビザ申請は三日後だ、待ってる余裕はない。担当者は奥に一回引っ込んで三日後にできると私に言った。
最悪ビザ申請は四日後の金曜日でも間に合うので私はそれを了承し家に帰った。
しかし台湾でさえ、結婚一秒後には戸籍謄本が出てきたので完全に予想外だった。
家に帰ると母が今日の首尾を聞くので戸籍謄本が出て来なかったと答えた。すると母は私が一緒に行けばよかったねぇと意外な答えが返ってきた。
どうやら知り合いが区役所の戸籍関係のとこの担当なので、明日電話してやるからまかせろと母は続けていった。

2013年2月3日日曜日

なんだか今日やっと気がついたのだが、母親がヒトの髪を染める商売をしてるらしい。

2013年2月2日土曜日

女から別れるとメールが来ていた。いつもの事だ。
電話は昨日の夜からずーと電源が切れている。
午後くらいに私もいい加減、めんどくさくなり家の電話を鳴らす。
女が出たので、この喧嘩を処理する。
夜、出かける。高校時代の友達と会う。高校時代は毎日のように遊んでいたメンバーだ。その時は7人くらいのメンバーだったが、今では連絡がついて集まるのは私を含めて三人だ。しかもそのうち一人は糖尿病で死にかけてる。
あれから18年経った。ということだ。
栄の中華料理屋で飲み、その後、コスプレバーに行く。要はコスプレガールズバーだ。そこでしょうもない話をしてると、人間変わらないとことは変わらない。

2013年2月1日金曜日

女が両親を引きあわせた時に、形だでけでも結納金やら何やらを何かをやったほうが良いと言い出す。あと台湾では結婚するときに金のアクセサリーを男から女に送る習慣があるらしくそれをやりたいと言い出す。
両親を引き合わせる予定は今月の13日の予定。時間がない。
私は正式な結婚式をいずれやるだろうからその時でいいだろうと答えた。
「じゃいつやるの?」女は言った。
「今年の年末か来年だろ」と私は答えた。
「それまでお父さんが持つと思うの?」私に聞いた。
私はそんなに悪いのかと驚いて聞いた。女は何でちゃんとわかってないのだと、キレる。
もちろん悪いのはわかっている。が、”とても悪い”と言うことしか聞かされていなかった。
女は直接、医者から聞いて”とても悪い”がどれほどのものなのか正確に把握しているが、私はどれほどか漠然としか把握していなかった。
とにかく女はブチ切れて電話を切り、出なくなったので私は眠った。