2013年1月31日木曜日

TSUTAYAでスターウォーズを全部借りてきて観る。
ふと幼稚園の頃の友達M君を思い出した。私は幼稚園の頃にスターウォーズに夢中だった。M君も夢中だった。
よくM君とスターウォーズの話をした。M君のお父さんはスターウォーズに詳しいのでM君は私にいろいろとスターウォーズの事を教えてくれた。
例えばストーム・トルーパーの中身は何のか?
それは当時私たちのような幼いスターウォーズ好きの子供にとって最大の疑問だった。説はいろいろあった、ロボットであるとか、人間であるとか、戦隊物の戦闘員的な存在であるとか。
M君は私にその答えをあっさりと教えてくれた。クローンだ、と。
クローンがなにか尋ねると、同じ人間がたくさん入っていると教えてくれた。私がクローンの意味を正確にしるのは何年後か後のことだが。
そして彼が教えてくれた最も重大なスターウォーズに関するエピソードは、オビ=ワンとダース・ベイダーは昔戦って、ダース・ベイダーはオビ=ワンに溶岩に突き落とされ、大怪我を負った、そして今のような姿になった、というものだった。
私はそれから約22年後、スターウォーズEP1を観て、ほとんどあっていたのに少し驚いた。突き落とされたというのは正確な表現ではないが、些細なことではないか。
そして今日ふとM君を思い出し、なぜM君のお父さんはここまでスターウォーズに詳しかったのかと疑問に思った。
今なら英語がある程度達者ならネットで情報を収集してれば、この程度の情報をえるのは容易い。
しかし30年前、ネットなんてもんは存在しなかった。一体全体どうやってM君のお父さんはスターウォーズの情報を得ていたのだろうか。

2013年1月30日水曜日

本格的に何もない一日。TSUTAYAから大量にDVDを借りてくる。
夜、女とSkypeで話す。日本に来る前にバタバタして聞いてなかったが、親父さんの病気の状況を聞く。
台湾でNo1の癌の専門医に手術はできないと言われたと、女は私に告げた。

2013年1月29日火曜日

今日はペーパードライバー講習の二日目。ちょっと変な感じのオッサンともお別れだ。永遠に。
また二時間半ほど運転する。普段運転しないので本当に疲れる。
取り敢えず、取り敢えず感覚は取り戻した。

2013年1月28日月曜日

この日本滞在中の間、90%の時間は待ち時間だ。
暇なのでペーパードライバー講習を受けることにした。台湾の親父さんがどうしても車を運転しろとうるさいので、しょうが無い。
近所でペーパードライバー講習をしてる会社を探すと数社見つかった。車を持ってきて出張してくれる会社を私は選び今日と明日、合計5時間の講習を受けることにした。
講習を担当する教官のオッサンはちょっと変わった感じだった。
二時間半ほど近所を運転する。何となく感覚を取り戻した所で講習は終わった。
マトモに運転するのは数年ぶりなのでひどく疲れた。

2013年1月27日日曜日

今日は妹の婚約者が私に挨拶に来る。正月に両親に挨拶は済ませたのだが、律儀にも私にも挨拶したいとわざわざやって来るのだ。
朝っぱらから母と妹は大掃除だ。妹はやけにピリピリしてやがる。
もう三十分で来るという頃に、父が狭い庭先でチェーンソーを振り回して庭の手入れしているのを観てキレる。
別にどうだっていいじゃないかと思うが。何にきをつかっているのか分からない。
後五分で来るといった所で妹が、私に婚約者の名前と年齢を告げた。私より一つ年下だ。苗字を聞く限り日本人の用だ。下の名前は言わなかったので男か女かはわからない。
しばらくするとやって来た。やって来た。男だ。
中肉中背、散髪したてと言った感じのさっぱりした短い髪、それなりに整ってヒトの良さそうな顔をしている。服装は小奇麗でカッターシャツにベスト。婚約者の実家に行くカジュアルな服装にこれ以外の選択肢はないと私は思った。
妹がにこやかに私に婚約者を紹介した。―彼をOと呼ぶことにする。
Oは一礼して自己紹介し、次に母に手土産を渡した。実にタドタドしい。が、それが私には好意的な印象を与えた。何度も心のなかで練習したという感じだった。
私は全くどんな人間が来るか予想をしていなかった。漠然と妹を嫁にするくらいだからもしかしたらそいつも頭がオカシイのかもしれない程度の事は思っていたが。
それが意外にも、マトモでイイ人の化身みたいな男を連れてきた。連れてきた。これはハッキリ行ってツボに入った。
私は爆笑したいのをこらえながら、一般的な話題を、探した。どうにか笑わずにOが何の仕事をしているか聞いてみた。
すると薬のネット販売の会社に務めているというので、ネット販売が解禁されて良かったですねと返すと、Oはネット販売の状況について語りはじめた。
仕事の話だけはタドタドしさは消え、立て板に水。営業的な事をしてんだろう。
それから30分くらい、話題もつきこの会談は終わった。
妹とOはこれから一緒に出かけると家をでていった。妹は出かける直前に私にありがとうと言った。妹から礼をいわれたのは何年ぶりか。
本当は私ももっと話をしようと思っていたが、一瞬でも隙を見せれば爆笑の渦に落ちてしまうので、会話はあまり続かなかった。
二人が出て行った後、母親が私がまあまあちゃんと大人の対応をしていたのに驚いたといっていた。
私は二人が出て行ってから思う存分笑った。

2013年1月26日土曜日

私が結婚した情報を親戚にばら撒いとくかと思い立ち、従兄弟にメール。結婚して帰ってきているので、来い。午後にこちらに来ると返信があった。
私には五人の従兄弟がいる。
従兄弟たちとは最大でも5歳程度しか離れていないので、仲が良い。私が帰ってきた時は大体皆で集まる。
急だったが、そのうち二人の従兄弟が私の家を訪れた。近況を報告し合い、私が帰る前に従兄弟全員で集まることを決めた。

2013年1月25日金曜日

久しぶりに何もない一日。
TSUTAYAにDVDを借りに行く。クローン・ウォーズのサードシーズンを全部借りて見まくり、眠る。
夜中に目が覚めると、Skypeに女からの着信が30回以上。
こりゃまずいと女に電話。女がブチギレてるので親戚のうちに行っていて思ったより時間がかかったと言い訳。言い訳。

2013年1月24日木曜日

朝起きて、饅頭を豆乳で流し込む。しばらく喰わないで済むと思うと気が楽だ。
親父さんは眠っているので、お母さんにだけ挨拶して、私は日本に出発した。
12時に飛行機は飛び立ち、3時くらいに中部国際空港に到着。そこから名古屋駅についた頃には4時半くらい。今日中に県警で無罪証明書の申請をしなければならないので私はタクシー飛び乗った。
15分後に県警に到着。5時前間に合ったと受付いくと4時半までと言われる。すると受付の姉ちゃんが担当者に聞いてやるから待ってろと言う。
すると担当者のお姉さんが来て、特別にやってやるからついて来いと言う。私はほっとしてガラガラとスーツケースを引きずって県警の中を行く。
面会スペースみたいな所では、結構大声でそこら中で揉めている。パーテーションで仕切られた一角に通される。
担当者にパスポートと免許証とビザの申請書を見せる。いろいろ書類を書かされる。最後に指紋をとるので、といわれ奥のほうにあった機械の前に座らさせられる。コピーみたいな機械で指紋をとられると手続き完了。手配されてる全ての指紋と照らし合わせる。二週間後に結果が出るという。担当者は照合後指紋は消去されるのでご心配なくと続けた。私は保存しといてもらっても構わないと思ったが。
実家に帰る。妹が帰ってきて、日曜日は家にいるかと私聞く。私がいるという答えた。
婚約者を私に引き合わせるつもりらしい。

2013年1月23日水曜日

朝起きて飯を喰い直ぐに出かける。元ルームメイトHと合流する。
台湾の婚姻届には証人として二人の人間のサインが必要だ。そのサインをしてもらうためだ。
本当は女の両親にしてもらう予定だったが、婚姻届には私の生年月日を記載しなければならない。それを記載すると私の干支と女の干支の相性が悪いのがバレるのが不味いと女が言うのだ。ここまで来たら両親も反対はすまいだろうが、ウソがバレるまた叱られると言うので、私がHにサインを頼んだのだ。
Hはフリーのデザイナーなので家で仕事をしている。奥さんは仕事に出てるので、昼休みにでもサインを貰うとして、しばらくHの家で待機する事になった。
Hの部屋でまったりと過ごしている。Hはいろいろヤッてるらしく電話がひっきりなし。Hが直で行くのは面倒くさいのでバイク便ですまそうという。
午後に外交部に書類を取りに行くのだが、家から近いので車で送ってくれるという。
Hの仕事の合間に私が女と家族の話をすると、Hは爆笑している。あぁやっぱりあの家族は変わってんだなとほっとする。
しばらくすると女から電話。もしかしたら今日役所に両親がついてくるかもしれないので、そうしたらやっぱり両親にサインをしてもらったほうがいいので、書き間違えた時ようの予備は白紙にしたほうがいいだろうとグダグダ言う。
私は今更なんだと、何のために時間を割いてもらったと思ってるんだと、答えた。もう下らん気遣いにはウンザリだ。
すると女がさっき役所に電話して確認したらサインは外国人はまずいと続けた。Hの奥さんは日本人だ。
この件は、昨日の夜、外国人で大丈夫かと私が女に聞いたら大丈夫。私は念のため朝イチで確認しろと言っていたのだが、すでに時間は昼近い。
私がHにその件を伝えると、Hはバイク便の行き先を変更。Hの友人で私も知っている人間に電話をいれて問題は解決。
昼飯を食った後、外交部で独身証明書を手に入れ、バイク便からサイン入りの婚姻届を手に入れ家に戻った。時間は六時少し前。
家に帰ると親父さんが娘はいつ帰ってくるのかと私に聞いた。もうすぐのはずだと答えると、サッとシャワーを浴びに行ってしまった。
女が帰ってくる。台湾の役所は水曜日は八時までやっているので時間は余裕だ。がグズグズしてるほどの時間の余裕はない。
私はお母さんにじゃ行ってきますと言って出入り口で靴を履こうとしていたら、準備ができた女が二人でちゃんと挨拶しなければならないとまたグダグダ言い出す。
また二人で料理の支度をしてるお母さんのもとへ。女が喋りだすと、話をぶった斬られて、二人で決めてやればいいからと冷たい感じ。女はなんか困った顔をしていたが、私は気にせず行ってきます。
原付を飛ばして、戸政事務へ。ここは役所の戸籍を管理してる部分だけが独立したような機関。
中は日本の役所と変わらない。
結婚関連の窓口に必要な書類を提出する。担当者は国際結婚に慣れてないようでやけに時間はかかったが、約一時間半ほどで手続きは完了。日本の役所やビザの申請に必要な書類も手に入れ、私たちは戸政事務を後にした。
やり遂げた感は、ある。が、結婚した感は無い。
五年前、私たち二人は全ての状況や法律やら何やらを無視して、精神的には結婚しているという事にした。やはり私たち二人はもうすでに結婚していたのだろう。
家に帰ると、親父さんに手続き完了したと報告。適当な日取りで結婚したのでやはり機嫌が悪い。だが親父さん、勝手にやれと言ったのはあんたなんだ。今までの子供はそういえばあんたの機嫌を伺って動いたんだろうが、私は素直なので、勝手にやれと言われれば勝手にやるんだ。
二人で飯を食ってる時に、女が後で両親に、これからまじめに頑張って仕事を探してどうのこうのと話をしろと言った。茶番をやれというのだ。私はそれを適当に流した。
飯を食った後、居間でくつろぐ親父さんとお母さんに、明日日本に帰って手続きを進めますと報告しひたすら荷造り。
両親が寝静まった後に女が何で茶番をヤラなかったのかと私に抗議。私はこう答えた。その茶番はすでにやったし、結果の伴わない言葉をいくら浴びせても、あの二人の機嫌が良くなることはない、無駄だ。

台湾飯

2013年1月22日火曜日

朝、わたしは3時に目がさめたので、コンビニにおでんを食べいく。それから読書していたら朝。
女がやって来て、今日は休みをとったという。午後から親父さんを病院に連れいていくので、午前に結婚の事を調べ行こうという。
昨日の夜、片っ端から調べた結果、戸政事務所という機関が出てきた。どうも戸籍の管理は市役所がやってるのではなくてここがやってるらしい。サイトに結婚の資料などがあるので間違いない。
私たちは戸政事務所へ向かう。担当者に国際結婚の手続きを尋ねるとテンパる。テンパる。
奥に引っ込んで4,5人で相談しようそうしよう。女が何でわからないの?豚なの?とキレれる。
取り敢えず過去の日本人で国際結婚した前例を見つけ出して、やっと話しが見える。
必要な書類を持って二人ここに来れば結婚できる事が確認できた。
その際に”中国名”の話しが出てきた。外国人が結婚する場合、中国名を申請する。感じならなんでもいいので日本人ならそのままの名前を使える。が、だ。資料を見ると苗字も名前も私が自由に決められるらしい。資料の端っこに変な名前はつけるのは控えましょうとは書いてあったが。
担当者は姓を変えるのは子供が面倒になるので、やめたほうがいいと言う。後二回しか変えれませんからと付け加えた。
名前を変えるのが難しい日本人にはヨダレが出るような話だ。更にいえば自由に姓を変えるなど。変えるなど。
私は女に全部変えてみようかと言うと、絶対に許さないと答え、そんな適当につけたらお父さんが激怒すると付け加えた。
女は、「でも姓を私と同じにするか、今の姓で名前だけ中国ぽくするのはいいけど」と言う。
別の中国名を持つと、日本のパスポートは日本名で、台湾の身分証に書かれるのは全然違う名前とうのは、魅力的だ。意味は無いのだが。
午後女は病院に向かう。
私は再び交流協会へ向かう、昨日ついでに運転免許の関係の書類も申請していたのでそれを受け取り、一息ついたら病院に健康診断へ行く。
この健康診断はビザに必要な書類の一つだ。HIVや梅毒に感染した人間には発行されないのだ。
日本で受けると高いので台湾の病院で済ます。1900元だったので、日本に比べれば激安だろう。
家に帰るとまだみんな病院から戻ってきてないので、さきにシャワーを浴びる。
しばらくして三人が帰宅。親父さんは今のソファーにどっかり。そばに座りどのタイミングで話そうかと伺っていると、説教が始まった。
私が親父さんの台湾訛りの中国語が聞き取れないのを知っているので、親父さんは女にあとで話しとけと言っているが、半分ぐらいは分かった。
内容は、もっと家の事を手伝うもんだくらいから、私が就職したらどう働くべきかというものにまで及んだ。ざっくり言うと、もし九時に仕事が始まるのなら一時間前には会社に行って鍵を開けておき、社長をびっくりさせろみたいなことだった。時代錯誤などというレベルでなく私は失笑した。親父さんはきっと愛想笑いだとでも思っいるのだろうが。
その説教でタイミングを失う。女が飯喰った後にでもと言ってシャワーを浴び行った。
親父さんは上の階の食卓で梨喰うかと声かけてきたので、ハイと返事をした。
ナシを2つ3つ喰った所で、今言ってやろうふと思い。
私は親父さんに、今日、結婚の準備ができましたので、明日結婚しますがいいですか?と切り出した。
すると良い日取りを選ばねばならないと不機嫌そに返答。日本に帰らなきゃいけないし、チケット予約したし、早く申請しなけりゃならないでとまくし立てると、適当な日取りで結婚するのか?とちょっとキレ気味。ここまで強く言われたのは初めてだが、引くに引けないので申し訳ないがと明日じゃないとダメだと答える。
親父さんは、分かった分かったお前らで決めろ!と呆れた7割キレた割とう感じで居間に行ってしまった。その前にお母さんに台湾語で何かいったが、明日結婚すってよ!みたいなことだろう。
何にしろOKなのだからOKなのだ。なんせ日本人は思い立ったが吉日、敵を倒すには早いほうがいいてね!
女がシャワーから出てきたので報告すると、倒れそうだと一言。だがケツがづらせないのでしょうがないと納得させる。
晩飯時、親父さんとお母さんの空気が重い。お母さんも私に普段と違って何も話しかけないので、相当キレてんだろう。
しかし食事も中盤になると、明日の結婚の話しが出てくる。女がどうのこうのと説明している。空気は重いが話のトーンは普通だ。
電話。どうも長男の赤ちゃんが生まれるらしい、あと一時間で。女と母親が病院に直行。
私は晩飯の後片付けをして、ゴミを捨てに行く。女が出かける前に親父さんにもう一度謝っとけというので、折を見て、日取りを無視してすみませんでしたと最敬礼。
親父さんはもういい、もういい、君たちで決めればいいからと、まだちょいギレ。
しばらくするとまた電話。親父さんの表情が明るい。生まれたんだろう。
電話を切ると無事女の子が生まれた嬉しそう言った。これで今日の不機嫌チャラだな。
しばらくすると女と母親が帰ってきた。女が言うには、病院へ行く途中お母さんはキレて泣いていたそうだ。
私はもう今日何を言ってもしょうが無い。これから私達二人がしっかりやって行く事だけが彼らの歓心をかう唯一の方法だと女を諭して、今日のご機嫌取りに決着を付ける。
そしてまた問題発生。
婚姻届だ。当事者以外に証人として二人の20歳以上の人間のサインがいるのだ。
女は当初は親父さんとお母さんに頼む予定だったが、生年月日が書いてあるので不味い!といいだした。
女と私の生まれ年は相性が悪いので、私は一年サバ読んでいるのだ。じゃ私の知り合いに頼めばいいと言うと、二人に書かせないと激怒するだろうからどうしようと言う。
私は法律が変わってんだから、証人の欄なんかなかった事にすればいいと答え、女を納得させ、昔のルームメイトに連絡をとりサインを頼む。
私は中国名の事もまだ迷っていたので、親父さんに頼むのを少し躊躇していた。これは渡りに船、というより、神の啓示だろうと解釈することにし、女をどう説得するか考え始めた。

2013年1月21日月曜日

今日の予定は、行動開始だ。結婚の手続きの。
日本から戸籍謄本が届くので、まずこれを婚姻要件具備証明書―独身証明書に変えなければならない。
婚姻要件具備証明書と婚姻届を持って、台湾人の住む地域の市役所にそれを提出する。これで結婚は完了する、台湾側のは。
午後休をとった女と待ち合わせる。それからそこら中へ電話して手続きの確認。
だがここで面倒な問題が噴出。台湾のお役所仕事は荒い。荒い。
留学していた時の話だ。留学生は一定期間を超えると長期ビザの申請をするのだが、これが中々の難関で、泣かされた留学生の話をあげたら暇がない。
荒いのだ。お役所仕事が。人によって必要な提出書類が違ったりは当たり前で、認められるかどうかは窓口次第という有様だった。
それで私達がぶつかった問題はどこで結婚の手続きをするのか?日本であれば役所一択なのだが、台湾も含め海外でわりと一般的なのが裁判所だ。裁判所で簡略化した式を上げて結婚が認めらるというのだ。その後の日本と同じように市役所へ戸籍を登録し結婚が完了する。
しかし五年前に法律が変わり、裁判所をすっとばして日本のように戸籍の登録するだけで結婚ができるようになった。
まず市役所に必要書類の確認の電話を掛けるが、まず裁判所にいけといわれる。
これだ。法律が変わって5年立っているが知らないのだ変更されたことを。下手をすれば当日市役所で門前払いだ。
取り敢えず時間がないので、台北の交流協会(日本大使館)へ向かう。が、途中でパスポートを忘れていたので一旦家に戻ったので、時間がギリギリになった。
交流会の場所は、女が昔の会社があった同じビルと同じという。じゃ場所は大丈夫だと安心してバスを降りると、女が近くのおっさんに道を聞いている。
同じ場所で知ってるのじゃないかと聞くと、「感覚、感覚よ」と答えた。久しぶりにど天然ブリを発揮。
なんとか交流協会を見つけ出し、戸籍謄本を提出して、日本側の承認を受けた婚姻要件具備証明書を受け取る。
あとは台湾側の認証も必要だ。私たちは外交部―外務省へ向かう。
外交部が閉まるのは5:00。現在時間4:20。乗り換え一回で4駅分くらいの距離。ギリギリだ。
私たちは小走りで外交部へ。その途中で女が何で外交部へ行くの?と私に聞く。10回は説明したろうと怒鳴り私たちは外交部へ。15分前。
申請サッと終わる。受け取りは二日後だ。ついでに外交部のオバサンにビザの詳細な取り方を
教えてもらう。
台湾で申請する方法と、日本で申請する方法がある。
観光ビザで入って台湾で申請すると日本に一度戻らなければならないという。
私達にとって一番早いのは台湾で結婚して、日本で申請する方法。
もともとは台湾で申請するつもりだったが、ある書類をとりに日本には一度戻らなければならない予定ではあったので、飛行機の予約だけはしていたが。大きく計画が狂う。
私と女は取り敢えず台北駅近くのモスバーガーで状況整理と作戦会議。
問題点―ケツが決まった事。2月の12日私両親が来るのでそれまでに私は日本から台湾に戻らなければならない。12日だ。
問題点―申請に必要な書類に無罪証明書というのがある。これは各県の警察本部で申請するのだが、発行に2週間かかる。
問題点―台湾の大使館に当たる機関が日本に少なく、愛知県は大阪支部の管轄になるので、申請に大阪まで行かなければならない。その上、申請は午前中のみで翌日の発行。最低でも16日はかかる上に、大阪に一泊だ。
となると私たちは23日か24日に結婚して、さっさと日本に出発しなければならない。チケットの変更も必要だ。
女がいきなり結婚の日取りを決めたら両親が何というかと険しい表情。日取りを選ばねばというが、もう待ったなしですよ。親父さんには私から話すと女にいった。
帰り道に、女が私が日本に帰る事は両親には秘密にするという。日本に戻るというとチケット代がもったいないだの、無計画だの小言を言われるが面倒くさいからという理由だ。両親には私が泊まり込みで家庭教師に行くといえばいいと言う。
確かに元々は3日程度の帰国の予定だったので、私も女が両親にウソを付くのを認めていたが、二週間以上というのは無理がある。しかも女は一日2000元、日本の金銭感覚なら日給二万円とふいていた、これ以上ウソを重ねると面倒なので、私は日本に帰る事を言うと女は絶対拒否。
家についてからもその議論は続く。
女は今は親父さんの体調が悪くて機嫌が悪いからすごく面倒なことになると、絶対拒否。
だが、いつもこの判断が私たちの状況を悪化させてきた。私は餅は餅屋と思い、女の気難しい両親の対応は女の意見を尊重していたが、ここまで予定がつまるともう私が完全にコントロールした方がいいと判断し、女の意見をはねのけた。面倒は嘘はつかない、と。
女地べたに座り込んで泣いて拒否。本当に今年30かとキレながら呆れる。
私が断固拒否の姿勢を崩さず、しばらくすると30歳にもどって取り敢えず承知した。
夜遅くに長男がやってくる、明日女が親父さんを病院に連れて行くのでその書類を渡しにきたのだ。30分ほどごちゃごちゃやっていた。
普段は長男が病院へ連れて行く担当なのだが、嫁さんがもうすぐ子供が生まれるので明日は女が連れて行く事になっている。
私はもう直ぐ義理の兄になる男に戸籍謄本とともに送ってもらったお守りを渡した。
今夜話そうと思ったが、親父さんはヘロヘロな感じなので、明日話すことにした。
わたしと女はどこで結婚するのかネットで政府関係のサイトを片っ端から調べて、眠った。


2013年1月20日日曜日

朝、女は取り敢えず飯を喰ったら、また原付の練習に行くと言う。
味のない饅頭を味のない熱くて濃い豆乳で流し込む。クソッタレ。
私は着替えて女を待ってると、うえのほうで親父さんの声。女がしばらくしてわたしの部屋に来て無言。無言。
何が少し苛つきながら何があったのか尋ねる。やっと答えた。
いろいろ言われたらしいが、一言でまとめると一体いつになったらお前らは結婚するって話をするんだ?
取り敢えず私は女と外に出て原付でそこらを一周りした後、近くのセブン-イレブンへ。ここは二階もあり、そこは椅子とテーブルがあり話をするのに都合がいい。
私はもう帰ったら話そうと言う。女も同意する。だから早く言おうと言ったじゃないかと少しなじるが、ここまで長引かせた原因の一端はわたしの怯懦にもあるので、そこそこしておく。私に少し引け目を感じてくれるくれればもらいもんだ。
どう話すかと言うことになり、セブン-イレブンの二階で揉めに揉める。女は親父さんを感動させて、安心させろという。が、すでに親父さんにせっつかれるという格好悪い状態なので、もうなんかあれなんだが。
最終的に土下座くらいしたるがなとなり、方針は決定。
マンションに戻ると入口にで親父さんとお母さんにバッタリ。天気が良いから散歩に出てたらしい。
ふたりとも相当不機嫌な様子。
部屋にはいると親父さんは居間の椅子に腰掛けて休憩、お母さんは上の階のキッチンへ。
私は不安そうな女を尻目に親父さんに、ビザがないと仕事探しがままならないので、先に籍だけ入れさせてくださいと言う。
「ハイハイ、いいよいいよ」と投げやりに手を振って答えた。
本当はこの後、土下座して幸せにしますだのなんだの茶番が続く予定だったのだが、じゃりがとうございますと頭をペコッと下げてしまいにすることにした。
お母さんにも話しとけというので、料理中のお母さんに話しかける。さんまを洗いながらあんたたちで決めたらいいわと言われる。
女はふたりともすごく機嫌が悪いと言ってビビっているが、私はOKならOK。勝ったもんが勝ち。
私は肩の荷が降りて安心して、実家の母に取り敢えず籍を入れると報告。

2013年1月19日土曜日

朝、女に起こされる。今日は原付の練習に行くと言っている。
親父さんが私に何回か台湾でも車と原付に乗れるようにしろと言われた。男が車を運転できないなんてというのが親父さんの考えだ。
私は大型の免許も持ってるがペーパーだ。車を運転する時間は人生の無駄だというのが私の考えだ。運転している時に本が読めないというのがその理由だ。移動しながらありとあらゆる事を体験できるのだ、ただ移動するだけのために時間を浪費するのは本当に無駄だ。
この一家は長男を除いて本とか一切読まないようなので、私の考えはさっぱり理解できないだろう。わずかに読んでる本も健康の本ばかりだ。
まぁしょうが無いので原付の練習を始めた。原付にはもともと乗れるので、正確に言うと台湾の交通事情に慣れる練習だ。
台湾は右側通行でアホみたいに原付の数が多くて運転が荒い。原付には二人乗りOKで、制限速度は車と同じだ。
原付の数は日本の自転車より多いかもしれない、だから巻き込み防止のためだろうが、停止線は車用とバイク用の二種類あり、バイクの停止線は車の停止線の前に引かれている。それでも数が多すぎてその停止線で止まっていたら危ないと停止線は誰も守ってない。
あと日本と大きく違うのは、タイヤがついてるのは何でも車道を走ってる。それが自転車だろうが電動車椅子だろがリヤカーだろうが何でもだ。
これは台湾の歩道が段差だらけで、本当に歩行者専用だからしょうが無い。
大体一日練習して家に帰る。女に今日夜話そうかというと、親父さんが体調が大分悪いのでやめようという。
もうそんなことを言って二週間は経つ。そんな事言ってたら永久に言えないだろうと私は女に言った。
女は結局、明日昼飯を食った後にでも話すことに同意した。

2013年1月18日金曜日

朝飯を喰って倦む。倦む。
親父さんとお母さんが出かける様子。
親父さんが昨日買ってきた超初心者向けの日本語の本難しすぎるという。日本語に振られている発音のルビがアルファベットのローマ字表記なのだがわかりにくいので、漢字のルビが振ってあるのを買ってこいという。この本は返品しちまえと言う。が、付録のCDは引剥がしてあるわ、ページは折ってある。その前に日本と同じで不良品でもないのに返品なんかできない。
私はわかったと答えて、これから出かける二人を見送った。
夜、女と一体いつ親父さんに結婚の話をするのか話す。女は明日よほど体調が悪くない限り話そうと言った。

2013年1月17日木曜日

朝出かける前に女が今日は親父さんに喰わせるために寿司を買ってこいという。OKOKどうせ大してやることはない。
朝、親父さんが馬鹿に上機嫌で日本語で話しかけてきた、知ってる単語を並べ立てただけだが。
今日は体調がいいので気分が良いと言う。そして暇な時に日本語を教えてくれという、それで出かけてた時にすごく簡単な日本語の教科書を買ってこいと、私のポケットに1000元札を3枚、無理やり突っ込んだ。
もらうわけには行かないのだが、はいたツバ飲まんとばかりに絶対に返しても受け取らない。あまり無理に突っ返しても失礼だと思い受け取る。
午後、私は女に指示された日本料理屋に出かける。場所は西門。ガイドブックにはたいてい台北の原宿とか書かれる場所だ。
若者が多い場所で、若者向けのファッション関係の店や映画館や飲食店やタトゥーの店が立ち並ぶ。ついで言えば近くにSARSが一番初めに発生した病院がある。
私は30年ほど前に日本人が開業した日本料理屋に向かった。チェーン店で西門だけでも2店舗ある。そのうち一件は回転寿司屋だ。
店に入り持ち帰りで太巻きといなり寿司を注文。待ってる間まわる寿司を眺める。日本と大して差はないようだ。値段はだいぶ高いようだが。
帰り道に本屋によって一番初心者向けの日本語の本を買い帰る。
バスが全然こないので少し遅くなった。扉をあけると親父さんが大分腹が減っていたのか飯だ飯だと声をかけてきた。
待たせてしまったようなので、こりゃ不味いと思い、これ買ってきたよと寿司を渡す。親父さんは一瞥して上にもってけと言っただけ。
あんま寿司好きじゃないのかと、とりえあえず寿司をテーブルに置いて、自分の部屋に上着と荷物を置きに行く。
その間に親父さんは中身を再確認。すると大声で寿司買ってきやがったぜ!!テンションが上ったようだ。
やっすい何の変哲もない太巻きといなり寿司だが大喜びで食べている。
親父さんは最近、食欲がなく3キロ痩せたといっていたので、女が大好物を私に買いに行かせたのだ。あとで聞いたら二年ぶりくらいに食べたそうだ。病気になってからまったく好きなものを食べていないという。


2013年1月16日水曜日

ここ数日、珍しく晴天が続いている。朝飯を喰った後、今日も天気が良いので私は布団を干す。屋上で布団を干したついでに家庭菜園の虫をつまんで捨てる。
親父さんが来るかとしばらく待ってみたが来ないので、屋上から降りると、ネットで株のチェック。
大分不機嫌そうなので話しかけるのはやめた。まぁ体調が悪くて、死にかけてるのは言い過ぎだとしてもそれに近いような状態なのだからしょうが無いだろう。
昼飯を食ってる時に台湾でも車を運転できるようになったほうがいいと盛んに言われる。私はわかったと答えたが、なにせペーパーなのでこの問題を解決するには手間がかかる。
午後は外出してKindleで浅田次郎を読みあさる。
夜、女と相談して先に結婚に必要なモノをあつめる準備を始めることにする。

2013年1月15日火曜日

朝、寝不足気味で起きる。起きる。
飯喰った後に親父さんが家庭菜園の手入れしてる時にでも、手伝いながら結婚の話をする予定だ。
飯くいながら緊張していると、女が「ちゃんと綺麗に虫をとるのよ!」農薬を使わないので虫をて社業で駆除するので―そういう意味だが、これにはカチンと来た。
女はそのまま仕事へ。
こっちが昨日の夜から土下座の予行演習までして、備えていたのに頑張っての一言も言えないのかと、私は相当頭にきた。
取り敢えずこの怒りを収める為に、女にメールを打つ。とにかく文句の一つでも伝えないと収まりがつかない。
メールを打ってる最中に女が会社についたらしく(家から10分くらい)、チャットに入ってきた。
私はチャットで不満をぶちまけた。先日の掃除の後に礼の一つもなかったのもあり、私の怒りのテンションは上がった。
しばらくチャットで喧嘩。一時間ほどすると女が全面的に非を認めたので終了。
そうこうしてるうちに親父さんは家庭菜園の世話を終えて下に降りてきていた。どっちにしろ今日は私のテンションがこんな状態では話す気になれない。
午後は面接に行くと外出する。まぁ結婚ビザがないと就職活動もままならないので、格好だけなのだが。
夜私が帰ると、家に誰もいない。確か今日も病院に検査に行くと聞いていたがまた遅くなるようだ。
女が帰ってきて二人で飯を喰う。
しばらくすると病院から帰ってきたが、大分テンションが低い。
それを見た女が結婚の話はまた別の機会を見ることにしようと言った。

2013年1月14日月曜日

朝起きて女が仕事に行き、それから何もなく昼飯を食わしてもらい、何となく外出。
モスで時間を日記を買いたり時間をつぶす。
帰りに女が親父さんん用に牛乳を買ってこいというので、スーパーへ。
台湾の牛乳は大きく二種類に分けられる。砂糖が入ってるのと入ってないの。更にそれが低脂肪やらなんやらと種類が多い。
親父さんは食事制限をしてるので、ドンピシャのを買ってかなければならない。メールでこれを買ってこいと言われたのとドンピシャがない。
私は女に電話したが出ない。20分待ったがナシのつぶて。間違ったの買っても怒られるので、帰るが、途中で電話が掛かって来て、無事買って帰る。女から私が自発的に買ったことにしろと言われるが、こんなドンピシャなのをいきなり買ってきても誰も信じない。
帰って親父さんに牛乳飲みます?と渡すが、直ぐに誰の指示かはバレる。
夜、本当は結婚の話をする予定だったが、そうとう具合が悪いというのでまた見送り。
二人が眠ってから、女と相談。朝なら比較的体調が良いので朝話すということになる。
女は、早い話土下座くらいした方がいいと言う。
私も実のところ、土下座くらいかましてやるかと思っていたので、同意する。
勝負を明日の朝と定めて、私はセリフと土下座の練習を深夜までした。下手な発音で話しが伝わらなかったら、ただいきなり土下座しただけでは、目も当てられない。

2013年1月13日日曜日

朝女に起こされる。今日は女の両親の新しいマンションの掃除を手伝わされる予定。予定。
女の両親は今住んでるマンションの他に3つほどマンションを持ってるらしい。
で、一番新しいマンションに近々引っ越す予定なので、そのマンションの部屋の大掃除をするので私も駆り出された。
その新しいマンションは築6年の高層マンションで、2階下には長男夫婦が住んでいてもうすぐ孫も生まれるのでそっちに住んだほうが便利がいい。中華的な文化圏の人たちは、子供を祖父母に預けて育てもらうとうのは普通によく聞く話なので、同じマンションなら好都合なんだろう。
掃除道具を積み込み出発。
マンションは12階で部屋数は居間、台所以外に三部屋に浴室兼トイレが2つ。こっちはメインの浴室兼トイレに加えて大体寝室にもう一個付いている。
部屋の中は前の住人が引っ越した後のままの状態。いろいろ細々したゴミも残っており、古いPCのモニターが床に転がっていた。
取り敢えず浴室兼トイレを掃除してと言われ、掃除開始。この両親はかなりの潔癖症なので徹底的にやらされる。アホみたいにバスタブをピカピカにして完了の報告をすると、バスタブは母親に掃除無くていいといわれる。
そして次の浴室兼トイレの掃除。こっちはメインで使われていたほうで、ばっちり汚れが残っている。何で私が知らん奴のクソがついた便器を磨きあげなあかんねんと、便器を磨きあげ、床も磨き上げる。
その後、昼飯の弁当を喰った20分かそこら以外はノンストップで掃除を続ける。気がついたら親父さんは早々に体調が悪いので、消えていた。
夕方くらいにそろそろ終わりかという時に親父さんが来る。声を掛けるが不機嫌そうに無視され、終ったのかと尋ねられる。私は態度ワルすぎやろと思いながらも、あと少しで終わると答えた。
親父さんとお母さんと長男が台湾語で(私にはわからない)で、いろいろ相談している。女に何をはしているのか聞くと浴室兼トイレの改造計画を話し合ってるという。
バスタブを取っ払って、洗面台を取り替えようという内容らしい。じゃもうそれ先やってから掃除せんと意味ねぇじゃねぇかと半ば呆れた。
親父さんはトイレについていたトイレットペーパーを設置する台が気に入らなかったらしく、ドライバーを出して外したりしている。が、改装するならそん時に綺麗に外してもらったらええやん、ボケとんかジジイと小声でつぶやく。
そんな相談も終わり、荷物を片付けさぁ帰ろうかという時に、親父さんが床の端っこに何かワックスの乾いたのがこびりついてると言い出しそこだけ掃除するハメになる。どうせまた改装後に掃除すんだからそん時でいいだろうがと思うが、やる。本当はどんだけ段取り悪いねんおっさん、お前仕事デキへんやろ!と小突き回してやりたいが、しょうが無い。
”親しき仲にも礼儀あり”これは日本人だけの考えだ。こっちの人間は身内になると途端にありがとうもすいませんも一切言わなくなる。
女もちょっとしたことでは、絶対に謝ったり礼を言ったりもしない。
今日だいぶ働かされたが、ねぎらいの言葉は長男の嫁がお疲れ様と言ってくれたくらいだ。
特に親父さんとかは機嫌悪そうなだけで、何の言葉もなし。まぁ身内に認められと思うかと無理やり納得する。が、親父さんは家にいる時にちょっとした事を手伝うと大げさにありがとうありがとうといってくれていたのに、今回は無言ということは、じゃあれは嫌味かなんかで言っていたのか?
私は大分、嫌ーな疲労感に包まれた。
そしてやっと鍵閉めて買えるという時に、お母さんが扉格子を指でなぞる、指先が真っ黒。扉をそうじしていたのは、女。掃除が足りん!みたいなことを言われている。
私は最後の最後に、みんなで気持ちよくお疲れ様でしたで終わったらいいじゃないの!とビンタしてやりたかったが、あまりの嫌ーな疲労感にもうどうでもよくなった。
家に帰りお母さんが晩飯の支度。
女が私にお母さんに疲れてるのに申し訳ないと言って来いというので、私は笑顔で疲れてんのにすいまえんねぇお母さんと声を掛けた。
お母さんは、こっちこそ恥ずかしくて申し訳ないという感じの事を盛んに言ってくれたが、ありがとうの言葉は絶対に出てこない。
今日もし機会があれば親父さんに結婚の話をする予定だったが、私にはもうその気力が残されといなかったので、早めに寝ると女にいったら、あんま早く寝たら両親がビックリするから両親より遅く寝てと言われ、私はキレた。何がやねんと。

2013年1月12日土曜日

朝、熱い豆乳で饅頭を胃袋に無理やり流し込み食事を終える。
今日は一日中でかける予定だ。普通なら女と出かけるところだが、一緒に一日出かけるとまた親にグダグダ文句を言われると言うので、私は一人でバスに乗った。乗った。
目的地は北投。温泉街だ。
こっち来て以来、湯に浸かった事がない。こっちの連中は毎日シャワーを浴びるが、風呂には入らない。その習慣がない。大抵の家にバスタブがない。ついていても取っ払う。女の家も取っ払われている。だが日本統治時代の名残で温泉街は有る。
北投もそんな温泉街だ。大抵がホテルが風呂屋やってるパターンで、そこら辺は日本と大差ない。
電車をおりしばらくブラブラしたが、一番新しく綺麗な風呂屋に入った。値段は600元、日本円で1800円くらい。
公衆浴場だと水着つけきゃいけないところもあるが、ここは水着は必要無いようだ。地下のくらい感じにジャグジー、サウナ、スチームサウナ、水風呂とほとんど日本と大差ない。
違うのは、サンダルがあるのと、サウナがヌルいのと、バリ風のベンチがあったりするくらいだ。
客が私一人だったので、久しぶりにサウナと水風呂を堪能した。
そのあとカフェでコーヒーを飲みながら休んでいると女からメール。お母さんと私のことを話したという。先に結婚しなければ仕事を見つけるのが難しいと。私が反応はどうだったか尋ねると少し起こっていたという。少し。悪くない反応と観ていいだろう。帰ってから詳しい話を聞くことにする。
その前に晩飯。留学生時代通っていたタイ料理屋でたらふく喰い帰る。
家に帰ると女の両親が笑顔でお出迎え。お母さんにだけ話したらしいが、とくに表情に普段と違うことは感じられない。
夜二人が寝てから女から話を聞く。
お母さんが私の仕事探しの状況を尋ねられたので、結婚ヴィザがなければにっちもさっちもいかないと伝える。
お母さんは不機嫌になり、もし結婚して私が直ぐに日本に帰ってしまったらどうするのか?とか台湾は日本より給料が安いのにとか、私は長男なのに台湾に来て大丈夫なのかとか、いろいろ言われたという。
それを聞いて、そんな話は私が来る前にせえよ、こっちは百も承知で来とんねんボケとんかババァとキレる私に女は答えた。
私は日本にも簡単に帰らないし、私も家族の承知で台湾に来ていると伝えたという。
女がそこまでハッキリ親にモノを言うのは珍しい。私は女に礼を言った。
一時間も話して、私たちは眠った。次は私が親父さんにとりえず籍だけ入れさせてくれと頼まねばならない。

2013年1月11日金曜日

女から毎日、外出するとおかしいと言われ、今日は家でおとなしくする事となった。
やる事といったらネットだけ。三食味ない飯を喰って過ごす。
女の両親は何回か出かけていった。親父さんは退屈だったら出かけろよみたいな事を言ってくれたが、あんたの娘が私をここにとどめているのだ。
女が帰ってきて、明日は一日出かけるとキレて宣言した。

2013年1月10日木曜日

昼飯を喰ってから家を出て、モスバーガーへ。バーガーとサイドメニューのからげを喰う。
暇つぶしにKindleでヒストリエを1巻を読む。一気に7巻まで買って読む。読む。
サイドメニューの唐揚げだけをもう一個喰って、コーヒー飲んで読む。
女が数回帰って来いと電話があったので面倒くさいから帰る。
家に帰ると飯。何か女の両親は機嫌が悪そう。メニューは台湾ではよくあるトマトのオムレツ。
親父さんは食事を制限されているので、卵を一口二口くらいしか喰ってないが、もうストップ。お母さんに超強引に阻止される。
こんな食生活してたらストレス溜まってしょうが無いだろう、このストレスも体調が悪い原因の一つじゃないかと思うが、好きに喰っても体には良くないし、最悪の状態だ。
とは言えちょっと喰うくらい問題ないと思うのだが、この家の人間はここらへんは完璧主義なので、本当にちょっとしか食べたいものも食べさせてもらえない。

2013年1月9日水曜日

ずっと家にいると何もないので、何となく近所のバス停へ。5,6線のバスがこのバス停に停まる。停まる。
どれに乗っても何処かの駅には行けるようだ、私は最初に来たバスに乗り込んだ。
目的も無くフラフラ、地下鉄に。
昼飯は家で家で喰わせてもらったのだが、全然味のない焼きそばだったので、味がある焼きそばが喰いたくなり、適当な店で焼きそばを喰いまくる。
それで気が済み家に戻る。
家に帰ると親父さんがあんまりストレス溜めないようになと言ってくれる。

2013年1月8日火曜日

今日は女が両親に私が面接に行くとウソをついているので出かけなくてはならない。
女は両親の機嫌を良くする為にさっとウソをつく。厳格で細かく気分屋の両親と暮らしていた為に身についた習性だ。兄の方もこの傾向がある。私はこの親子を見ていて甘やかし過ぎるのも問題だが厳しすぎりのも同じくらい有害な問題だとつくづく思う。
一見この家の子どもたちは、親の言うことをよく聞き、何でも言われたとおりにする。兄も結婚し家を出ても週末には必ず帰ってきて一緒に食事をとる。理想的な仲の良い家族に見える。が、その実細かいウソから大きなウソまでウソが家の中に溢れている。
私も両親にウソをついた事はもちろん何度もある。が、ここまで日常的にウソをついたことはないし、大きな隠し事もない。
例えば女は大学4年生の時に成績が悪く落第した。しかし親にそれを言い出せず、卒業できたと報告し、結果自主退学した。この家族は皆善人ではあるのだが、何かが少しねじれておかしな感じなのだ。
まぁとにかく出かけなくてはならないので、昔のルームメイトと昼飯を喰う約束を取り付けた。
時間になり家を出るが、女に教えてもらったバス停の場所を忘れた。一回原付の後ろの乗っけられてさっと歩いて10分くらいの道を説明してもらったのだが、他にも幾つかの道を教えてもらった事もあり、ごっちゃになって思い出せない。
しょうがなく女に電話するとキレられる。仕事中なので10秒以上は話せないといった感じで電話は切れた。
雨も降ってきて、時間にも遅れそうだ。面倒くさいのでタクシーに乗り込む。80元なので日本円にすれば300円以下だ。
女から再び電話がかかってきたのでタクシーに乗ったというと散々罵られる、後でメールでも罵られる。
もう面倒くさいので、無視して元ルームメイトとのランデブーポイント:萬華駅へ。
10分前に到着する。もちろんルームメイトは着てない。10分後に電話するともうすぐつくとの返答。
日本人は約束の10分前に到着し、台湾人は約束の10分後に到着する。という話は日本人と台湾人の比較によく引き合いに出される話だが、今日は偶然だがその通りになった。
元ルームメイトHは私と同い年の35歳で、職業はフリーのデザイナーだ。Hは日本人の女性と結婚している。
私がもともと日本人の留学生仲間と一緒にルームシェアしていたが、仲間が出て行ったり、帰国したりした時に、ネットで新たなルームメイトを募集した時に知り合った。
私たちは馬が合い、以後一年は私が帰国するまで一緒に暮らし、その間いろいろ助けてくれた。
約束の時間から10分後にHが私を車で拾ってくれた。そのあとまともに味のある飯を喰い、コーヒーを飲みながら数時間話す。
私の現在の状況を話すと、一緒に住んでるくらいなのだから先に結婚するのはほぼ大丈夫だよと言ってくれた。この一言に私は大分安心を覚えた。
その後は、Hが最近主催しているイベントの話になる。Hは台湾、日本、韓国の主に留学生を集めて交流会を開催している。
ほとんど一人で準備しているらしく大変だと話していた。私は前回顔だけだしたのだが、中々面白そうなので運営に空きがあればイッチョ噛ませろと頼むつもりだったのだが、空きもクソもなく二つ返事だ。
それから家に帰るが誰もいない、いない。女の両親は病院だ。ここ毎日微熱が出るとかで検査にいっている。
女が帰ってきて、先に一緒に飯を喰う。それから電話がかかって来るが大分悪いらしい。
女が2月に私の両親が来るのだがやはり会えないかもしれないので来ないほうがいいと言うので、母に電話し謝る、チケットのキャンセル料は出すと話す。
大して怒ってはいなかったが不愉快さは伝わってきた、それならいつ行けばいいのかと聞かれる。
わからないと答えるしかないのだが、元々女の両親が何度も会いたいというので、頼んでいたのだ。
また母はいろいろな活動をしていて多忙なので、その時期にあわせて色々予定をたていたので大分もしわけないことをした。
女がお詫びのメールを書くので、怒らないようにはどう書けばいいかと聞いてきたので、それほど怒ってはいないが、もうすでに怒っているので、どう書いても無駄だ、とにかく謝れと言った。
女がしょうがないからどうのこうのと言うから、それをきっかけに、申し訳なさとストレスで私の怒りが女に向いていしまう。
私が今回の件で引っかかってるのは、女の母親が私に、仕事を見つけて落ち着いてからの方がいいんではないかと言った事だ。
それなら私が台湾に来て直ぐ2月に呼ぶが予定はどうだと聞いた時に言えば良かっただろう、それ以前に数年前から何度も親を呼べ呼べ言ってたじゃねぇかと、あれは何なんだと私が言うと、女は申し訳なさそうに母親の性格だと答える。
だいたい親父さんも具合は確かに悪そうだが、飯は食欲はないとはいえ飯は三回食ってるし、昼間はテレビ見たり買物とか行っている。私の両親と会えないほど悪くないだろうというのが私の正直な意見なのだ。
女はこれから悪化するかもしれないから頼むといい、素直に何度も謝るので、私も落ち着いた。
女はとにかく普段自ら謝らない。女に原因があり喧嘩になった場合、私が徹底的に女の非を指摘して強制しないと謝らない。
それが素直に何度も頭を下げて謝るので、私はこう言った。
私が本当に怒りを感じているのはお前の母親にだ。良い人であるのはわかるが、今後このようなその場の感情に任せた態度で重大な事をいきなり翻してもらっては困る。もう私の両親には私から台湾に来てくれと頼めない。今後もしお前の母親が父親の体調が良くなって、機嫌よくいきなり来てくれと言われた時には、私は怒りをコントロールする自信がないので、良くい含めておけ。
女は渋々承知した。
夜の10時半を超えたが両親は戻ってこない。女が寝ようというので私も眠かったので眠った。



2013年1月7日月曜日

朝起きだし、女の母親に挨拶し飯を食う。メシはオートミールにパン。
今日は何の予定もない。
ここ数日で台湾の就職事情がハッキリと分かった。現状ほとんどの会社が日本人を採用しない。労働ビザの申請が面倒くさいからだ。例外は管理者の経験が長く、業界の事情に精通しているとかそんな人間だけだ。私にはそんな経験もないから普通ならお手上げなのだが、労働ビザを申請しなくてもよいなら日本人を雇う、つまり台湾人と結婚した日本人だ。
転職会社のおっさんも言っていたが、結婚ビザさえあれば探すのはグンと楽になるし、応募が来て無くてもガンガン営業を掛けてくれるそうだ。
先に結婚さえしてしまえばさほど給料や内容に拘らなければ、喰っていけそうだ。
問題は、女の両親にそれを納得させる事だ。女は今は父親の健康状態が悪いので話さないほうがいいというのでタイミングを図っている状態で足踏みだ。
取り敢えずこの家にいると息が詰まるので、転職会社の面接に行く事にして、出社する女と一緒に家をでる。
私は女の父親が貸してくれたそこそこ高いマウンテンバイクに乗り、駅に向かった。
駅近くのモスバーガーで数時間時間を潰し、電車に乗り込む。昔、言語留学中に通っていた師範大学に向かう。
大学の近くには飲食店が集まり、夜には屋台も出てきて師大夜市として、昼から大学生と留学生で賑わっていた。
だが数年前に屋台が一斉にヤラれてしまい、今は大分閑散としていると聞いている。
久しぶりに訪れたが、その話は本当のようだった。店舗を持っている店はもちろん健在だが前のような活気は完全に失せていた。
行きつけの店のほとんどは潰れていたが、ほぼ毎日のように通っていたカフェは健在だったが、ほとんど客はいなかった。
昔は適当な店でメシを喰い、このカフェで仲間たちと話をしたり勉強したりして、夜まで時間を潰していた。大抵の日本人留学生がこのカフェを使っていたので、行けば必ず知り合いがいる店だった。
私が訪れた時間は午後の3時くらいだったが、店にほとんど客はいなかった。

2013年1月6日日曜日

八時前に目が覚める。目が覚める。
昼に女の兄夫婦が来て一緒にメシ。食卓には普段より多めの皿が並び、何故か鍋が2つ。普通はスープが一種類なんだが、2つ有る。
女の母親がカレーだよと一言。そういえば日本では何を作ってたのかと聞かれてカレーとなんとなく答えたので気を使ってくれたのだろう。
日本でカレーと言ったら、皿にご飯が盛られそこにカレーをかけて喰う。他に主にオカズは出てこないのが普通の感じだと思うが、この家ではなんかオカズの一種としての扱いのようだ。
嫌な予感しかしなかったが、茶碗にご飯を盛ってカレーをかける。シャビシャビでほとんどスープ。味もなく小学生が生まれて初めて作ったような失敗作。とは言え気を使って多めに食べる。
私はもう二度とこの家で普段作らないような料理名を会話で出すのは避けようと誓う。
両親と兄夫婦はCOSTCOへ買物へ出かけた。私と女が残された。
女は私のありとあらゆる行動を両親が気に入るようにしようとしている。もしも両親が気に入る呼吸の仕方があればそれを私に強制するだろう。
さっきの食事でも箸を置くときの動作の力が強すぎるとか(常識の範囲で普通に動いているだけだと思うが)、もっと野菜を食べろとかグダグダ始まった。女の母親が私があまり野菜を食べないとか、魚ばかり食べてるとか、文句を言っていたと言う。
私にわからないようにまた台湾語でブツブツ女に文句を言っていたのだろう、陰険な性格の悪いババァだ。
私は相当気を使ってあの糞不味いカレーをガブガブ食べた事もあり、キレる。
俺は全てのオカズを美味かろうが不味かろうが笑顔で食べてるし(ほとんど不味いが)、魚ばっか食ったのは誰も食べてなく残っていたので気を使って食べたのだ、何でも大体クエクエうるせ~から食いまくってんじゃねかと、キレた。
しばらく女は黙ったままだったので、自分の部屋に戻り、ベッドに寝転がる。
しばらくすると女が謝りに来た。しばらくカリカリしていたが、ちょっと眠ったら何となく落ち着いたので二人で出かけ、コーヒーを飲んで戻ってくる。
夜食事が終わり、女がシャワーを浴びていて、居間には両親と私の三人。
去年くらいから、女の両親に何度も私の両親と会いたいと言われたので、私と女は2月の旧正月に両親を台湾に来させる計画を立てていた。
私がこの家にきた一日目にも大体2月を予定していると伝えて、いつが良いか聞いたのだが、いつでもいいよと答えが帰ってきた。
今日の昼、私の母からチケットを予約したというので、その事を伝えた。
てっきり私はそっちの要求通りに事を運んでいるので喜ぶのかと思ったら、女の母親の顔が明らかに曇る。
2月のその時期だと兄夫婦の出産と重なるからどうのこうの、私の仕事が決まってからのほうがいいんじゃないかとかいろいろ言い出す。
一日目に言えや、と喉まで出たが、それを飲み込む。寒気と怒りが体の中で渦巻いている。女がシャワーから出たら話そうというので、暫く待つ。
女がシャワーから出てくると、話が始まる、台湾語で。女は北京語で答えているので何となくはわかるが、北京語で話せやとテーブルを蹴りたくなる。
女が何となく善戦しているのはわかるが、それだけしかわからない。父親はテレビから目を離さず二言三言言ったが、台湾語なので分からないが、来たら来たで大丈夫みたいな事を言ったが気がする。
話が一段落ついた所で、女が洗濯するというので手伝うとついていき、ミーティング。
女が言うには母親が相当気分悪く怒っているという、父親は私が聞き取れた通りの来たら来たで大丈夫という感じの反応だたようだ。
今さら何を言ってやんがクソババというのが私の意見だ。が、しょうが無いので母親に謝ってチケットをキャンセルしてもらうしかない。
話し合いの最中に女にも少しキツイことを言ってしまったので、それを謝り、取り敢えずキャンセルを頼むということで居間に戻る。
居間に戻り女がそれを伝えると、今度はそれは私の母親に悪いので、私達二人でどうするか決めろと言う。
脳みそ沸いとんのかババァ、と壁にでも叩きつけてやりたいのを堪える(こんな私を受け入れてくれただけでも感謝すべきなのだと、何度か心で繰り返して)。一応私の両親を台湾にこさせるということになる。
その後、もっと頻繁に相談すべきだった勝手に決めて申し訳ありませんでしたと頭を下げる(全然勝手には決めてないのだが)。すると女がそういうことをしっかりと伝えなかったのが悪いのであって、私のせいじゃないと言われる。涙が出そうになるが、それは制御できない一歩手前の怒りがもたらした物だ。
それから夜、女が兄にも相談。女は泣きやすい性格で電話しながら泣いていた。私と両親と私の両親への思いで多方面から挟まれているのだ。
一時間ほどしゃべっていたが、父親の健康状態が相当悪く水曜の検査次第ではそれくらいにまた手術するかもしれないから、キャンセルさせたほうがいいかもしれないと言われる。
兄貴は私のストレスも心配してくれて、女の実家を出て自分の家にすめといってくれた。出産のため一ヶ月家を開けるのでその間限定だが、ありがたい申し出だ。
しかし私が女の両親がそれに同意するかと尋ねると、女は両親には友達に家に泊まることにすればいいという。
女に取り敢えずキツイことを言ってしまったことを謝り、私たちは眠った。


2013年1月5日土曜日

朝起きる。前日の夜、女に指示されていた通り電話を掛ける、女に。
一挙手一投足、私が両親に気に入られるように行動させようという女の計画だ。10分待てと言われる。
10分後、すでに起きていた母親に挨拶し、メシを喰う。
土日なので週明けから仕事探しをすると話、今日明日はこの家でのんびりするハメになる。
両親はかなり私に気を使っているようだ。
台湾では所謂、中国語と言われる北京語が主に使われているが、他にも数種類の言語が使われている。駅とかの公共の場所でも数種類の言語のアナウンスが流れる。北京語の次に来るのが、台湾語だ。大部分の人間が台湾語と北京語の両方を話す事ができ、年齢が高い人間ほど台湾語を日常的に使う。また南の方に下ると台湾語を使う傾向が強くなる。
ここの両親も会話の半分は台湾語だ。私は台湾語はさっぱりわからない。
その上年齢が高い人間ほど北京語も台湾訛りが強くなるので、両親の話は本当に分からない。
私は台湾で中国語を覚えたので台湾訛りは多少は慣れているのだが、高齢者の訛りにはついていけない。
女が仕事探しの合間にでも、日本語を教える家庭教師のバイトをやったほうが良いと言い、数カ所にネット登録をした。

2013年1月4日金曜日

朝起きて、映画を観ながらラブホを引き払う準備。今日から女の実家に移動する為だ。
昼頃、荷物を片づけ受付に鍵を返す。長期滞在してたが、ありがとうの一つも出てこなかった。
女が仕事を終えるのを待って一緒に移動する予定なので、しばらくは時間を潰さなければならない。
駅のコインロッカーにスーツケースを預け、板橋行きの電車に乗る。
私がいつでもネットできるように、女がデータ通信端末を借りてくれていたのだが、今日が返却期限。板橋の中華電信の店まで行き、データ通信端末を返す。
暇なので少し台北駅付近をぶらつき、飯を喰う。ワンタン麺と炒飯。こっちの人間じゃほぼしない食い合せだ。主食と主食を一緒に喰う感覚らしい。
また電車に乗り新北市まで戻る。駅近くのモスバーガーに入る。24時間営業でコンセントがある席もある上にWIFLYというwi-fiサービスも使えるのでうってつけだ。
WIFLYは台湾の大抵のコーヒーショップ、ファストフード店、コンビニでwi-fiが使える。料金は一ヶ月でも500台湾ドル、全く問題ない。
PCからそのままカードで料金を払って使える、面倒なのは身分確認に携帯電話が必要なことぐらいだ。
バーガーを喰いながら、iTunesで極大射程をレンタルして時間を潰す。何故か急に極大射程が見たくなった、理由は、分からない。
極大射程が終わったくらいに女から連絡が来た。合流するが移動する前にコーヒーショップでミーティング。
女は両親に、私が今日到着したと伝えてあるので、それに合わせること。
本当は今日にでも、さきに結婚させてくれと頼むつもりでいたが、今日来たばかりでいきなりはないだろうとなり、明日か明後日、父親の健康状態を見て、頼もうということになった。
女の父親はガンの手術をして数年経つが、まだ体調が良くなく、何度か手術をしている。最近また特に体調が悪いから、体調を見て機嫌がいい時に話したほうが良いという結論だ。
女の実家は6階建てのマンションだ。5階と6階の部屋を所有しており、改装して中でつながっている。
女の両親は、私から言うとはっきり言って変人だ。
特に子供に異常なほど厳格で、女の兄貴が27.8歳の時に髪を茶色に染めたのだが、ブチ切れてエライ騒ぎになった。特に母親はしばらくの間口もきかなかったらしい。
私が到着すると食事を中断して、歓迎をしてくれた。私達もそのまま食卓につく。
この一家は健康マニア家族だ。父親の健康状態が悪くなってからは、更に、だ。
食卓に並ぶ料理は台湾のくせに油っけが全くなく、それどころか味もない。味のない家庭菜園で作った有機野菜と魚だけの食卓。肉はほとんど食わない。台湾人の中ではかなり珍しい食生活だ。
その生活は質素そのもの、酒なんぞ一滴も飲まず飲むのは水とお茶だけ、趣味は旅行と家庭菜園。普段は家庭菜園の世話とテレビと経済雑誌をみて過ごしている。
私だったら酒でも飲まなければやってられない生活だ。
食事が終わると、私は女がもともといた部屋に済むことになる。女が荷物を空き部屋に移動させるから少し待てと言い引越しを始めるが、ものの三十分で作業は終了する。
私がこの一家に感じる変人感の数ある中の一つは、このモノの少なさだ。女は事前に準備もしてないのに三十分で全ての荷物を移動させた。
これはこの部屋というか一家全体的に言えることだ。本当にモノが少ない。すごくガランとしている、
生活感を感じないほどに。
女の部屋を例にあげて言うと有るのはベッド、机、衣装箪笥、棚。そこにすべてのモノが収まっている。有るのは服、化粧品、ノートパソコン、身の回り品の細々したものくらい。本やら雑誌やらCDやらDVDやらかさばるものが全くない。強いてい言えば本が数冊程度だ。この部屋全体もそんな感じだ。
私のような人間がこの家で暮らしていけるのだろうか。





2013年1月3日木曜日

遅く起きシャワーを浴びヒゲを剃る。久しぶりにスーツを着て出かける。
台鐵とMRTを乗継ぎ、中山駅へ。会社に向かいながらもし中国語で自己PRしてくれとかいわれたらどうしようかと不安になるが、もうどうしようもない。
受付には日本人。狭い面接スペースに通され、すぐに電話で話したおっさんが来る。
砕けた雰囲気で話は始まった。こっちの経歴や状況を説明する。おっさんが語る現在の台湾の事情は最悪。今はほとんどわざわざビザを申請する手間まで掛けて日本人を雇わない。だが結婚ビザさえあれば仕事は絶対にあるという。
おっさんの話の行間を読むと結婚してから出なおせ。
OKOK。いっちょ女の親と勝負って話だ。
ラブホに帰って休んでると女が来た。
今日の話を説明する。普通ならさっさと結婚すればいいんだが、アホみたいに厳格な親を納得させなければならない。女が反対されるかもしれないとか怒るかもというので、35歳で仕事もクソも何かもほっぽり出して台湾にやって来て、クソ安い給料のクソ仕事探す為に結婚するのを反対されたらブチ切れそうだと話すと、女に泣かれた。
泣きたいのはこっちだが、しょうが無いのでちゃんと説得するから安心しろと慰める。

2013年1月2日水曜日

今日はやっと職探しの予定がある。といってもただ電話するだけだが。
台湾で日本人や日本語を喋れる連中専門の転職会社だ。
日本にいた時にすでに履歴書だけは送ってあり、台湾に来て正月が開けたら電話するように言われていた。
電話すると明日、話だけ聞くからパスポートだけ持って来いと言われる。OKOK。
あとはやることが無くなる。iTunesで映画を観る。5年前に留学していたときはこんなサービスはなく映画やら漫画やらからは完全に取り残された。取り残された。
今はiTunesにKindle。これぞネットだ。
見た映画は岡本喜八の”激動の昭和史 沖縄決戦”こんなマニアックな映画がラインナップにはいってるとはAppleは中々のもんだ。レンタルも無くて困っていたのでちょうどよかった。
内容は暗いので薄暗いラブホでがどんどん暗くなった。
気に入ったのはラスト近くの司令官の二人の切腹のシーン。切腹の時間稼ぎに部下が砲弾の中に突撃させられていく。部下は火炎放射器で焼かれるわなんやロクな死に方してないのに、人格者の司令官はのんびり切腹。やっぱり今もそうだが、昔から幹部の考えることはわからん。

2013年1月1日火曜日

女が休みで朝にラブホに現れる。予定では明日から実家に移る予定だ。しかし女が金曜までここに泊まれという。私はこのラブホにウンザリしていたので抗議の声を上げるが、しょうが無い。
両親が田舎に帰っているので、母親がその間私たち二人だけで家にいるのが嫌なのだそうだ。もう三十の娘が婚約者と何かないほうが心配だ。
女が私の破れたジーパンを見て服を買いに行くと言い出す。二年間ほどほぼ毎日酷使していたので当たり前だ。とにかく言うことを聞く。
板橋まで移動する。昔は―数年前は何もなかった場所だが、今ではそこら中に高層マンションとデパートだらけになっていた。駅ビルを歩き回っているとちょうどEDWINの去年のモデルが半額で売られていた。ジーパンとシャツとついでに靴を買う。私はめったに服を買わないのだが、気に入ったのが手に入り御機嫌だ。
あのEDWINの店に偶然入らなければUNIQLOでジーパンを買わされる所だった。UNIQLOは悪くないが丈夫な服を買うべきじゃない。
買物遠征が終わるとまたラブに戻る。あと数日ここにいなければならない。